

読者の皆さんは、山内杜氏(さんないとじ)をご存知でしょうか。
南部杜氏、越後杜氏、但馬杜氏などはつとに有名ですが、それは耳にしたことがないとおっしゃる方も多いのでは。なぜなら、山内杜氏は主に秋田県内で活躍しており、奥羽山脈の麓にある小さな山内村が発祥地だからです。
現在の山内杜氏組合員は330名前後。杜氏数は44名で、阿桜酒造株式会社の照井 俊男 杜氏もその一人です。
「祖父は杜氏、父は蔵人でした。私も中学を卒業した十六歳の時、この道に入りました。酒造りを志したとか、好きだったとかではなく、そうすることが当たり前でした。でも、最近の山内村では、酒造りを三代続けた家は珍しいそうです」
そう言ってはにかむ照井 杜氏は片倉専務と同じく五十五歳ですが、ふとした表情にはあどけなさを感じます。
山内杜氏らしさとは、「ごく普通のオジサン」「飾らない素朴さ」「控えめな言葉」だとか。照井 杜氏の物腰にそれを認めながらも、細やかな気配りはひとかどの人物像を窺わせます。
照井 杜氏がこの業界の門をくぐった昭和38年(1963)頃は、高度経済成長期の真っ只中。地元の同級生や弟・妹たちも、集団就職列車に乗って上野駅を目指す時代でした。長男の自分はそれを見送り、夏は農業、冬は酒造りで一家を背負ったそうです。3軒目の酒蔵として阿桜酒造に入ったのは、昭和46年(1971)年。杜氏を任されたのは17年後の平成元年でした。蔵人も入社以来変わらぬメンバーで、息もピッタリの関係を続けています。
良好な現場を保ってきた今、入社当時との差は何でしょうと訊ねると、やはり特定名称酒への取り組みが本格的になったことと、照井 杜氏は答えます。
「その頃、秋田の蔵元はどこでも上撰、下撰クラスが主力でした。しかし、昭和48年のオイルショックから数年間、急激に日本酒の消費が落ち込んでしまったのです。当社にもその影響がかなりありました。その結果、石川社長の英断された方針が吟醸酒の開発でした」
昭和50年代半ばより、照井 杜氏は吟醸酒造りに没頭します。精進の甲斐あって、文字通り蛍雪の功なったのが、平成3年(1991)の全国新酒鑑評会でした。
銘柄「かまくら」の大吟醸酒が、初めて金賞を受賞したのです。
「まずは、鑑評会で評価されることだと思いました。遠い道のりとは思いましたが、みなが力を合わせることで、毎年一歩ずつ手応えをつかんでいました。でも、一番苦しんだのは麹作りでしたね」
秋田流長期低温発酵は、大雪で浄化した空気と寒さで乾燥する気候の賜物。しかし、麹室での作業や醗酵には、蒸し米の保湿性が条件として付きまといます。
麹菌が最高の状態で米の芯白に入る“突きはぜ”を得るには、どんな麹室が必要なのか。吟醸酒造りなどほど遠い設備に思案投げ首だったと、照井 杜氏は振り返ります。
どうしても乾燥する麹室のために、照井 杜氏は秘策を考え出します。それは現在も、阿桜酒造独特の仕込み方として常用されているとのこと。是が非にでも拝見したいと、麹室へ向かいました。
杉の麹台は筵に被われ、何の変哲もない醗酵の状態です。しかし、照井 杜氏のめくった筵の下には、ビニール袋に入った麹米が並んでいたのです。
「何度も綿布や絹などで包みましたが、この方法が一番良い具合に水分を保てるのです。こうすると、麹菌が上手く酒米になじんで、さらっとしたキレの良い酒ができます」
手順としては麹菌をまぶした後、ビニール袋に入れ23~24時間を寝かせます。醗酵が落ち着くと徐々に乾燥させていきますが、ここでも15時間ぐらいはビニール袋から出さず、封の開閉などで加減します。
麹の形がしっかりした後、袋から取り出して、完全に乾かすそうです。
平成14年度全国鑑評会の金賞酒“大吟醸原酒雪の音”も、それ以外の特定名称酒もこの方法で仕込んでいますが、さらにこの麹を活かすのが、奥羽山系から湧き出る天然の伏流水です。阿桜酒造の井戸水は全硬度数2.8で、仕込み水として特に具合が良く、思い通りの酒母ができるそうです。
「最終的にどんな酒を造るにしても、まずは理想的な純米酒として仕込むことです。そこから吟醸酒もできるわけですから。そのために酒母段階の水も、麹と酵母の関係を生かす量であることが大切です。 私の場合、基本的には米100kgに対して水は140%にします。これぐらいで徐々に麹米を溶かせば、麹の特性、米のうま味が途切れることなく広がります」
穏やかに語る照井 杜氏に、井戸のありかも見せてもらえればとお願いしましたが、惜しくも、この時期は雪に埋もれているとのことでした。
最後に、阿桜酒造ファンを募る「一口オーナー」について質問してみました。
これは阿桜酒造株式会社のホームページ(http://www.azakura.co.jp)にも掲載されていますが、個人のお客様を対象に“酒米作りから瓶詰めまでの一貫注文”を受ける、完全手造りオーダーシステムです。
「毎年4月の稲の種蒔き、田植え、刈り取りの状態をお客様に連絡します。酒米は秋田の酒造好適米“吟の精”使っていて、栽培している契約農家のご主人は、実は当社の元蔵人です。旧知の仲なので、良い米を作ってくれますよ。仕込みが始まると、お客様を蔵元見学会や味見会に招待します。そして、できあがった酒は四合瓶(720ml)6本を1セットにして、オーナー(お客様)のオリジナルラベルを貼ります。皆さん、大変喜んでくれます。私たちも、その声が励みになりますね」
手造りにこだわる照井 杜氏としても、杜氏冥利に尽きるとの弁。
今年で4年目を迎えた新しい販売促進ですが、反響も上々。贈答用や慶事記念にと、年々ファンも増えているそうです。
インタビューを終えた後、カメラマンが「雪国だけに、春までの住み込みは大変ですね」と照井 杜氏に声をかけました。すると照井 杜氏は、「いいえ。我々は地元の者ばかりですから、自宅通勤です。だから、気分的には楽ですよ」とにこやかに答えます。
総勢9名、平均年齢六十一歳の現場でも、家族の笑顔に包まれれば厳しい寒仕込みも乗り越えられるのでしょう。各現場には、熟練者同士の助け合う姿、屈託のない会話と笑顔があふれていました。
次なる全国新酒鑑評会の金賞を目指す阿桜職人たちには、この冬も、静かなる闘志が漲っています。