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株式会社飛良泉本舗 ~蔵主紹介

派手な桜よりも、地味な梅の花でありたい・・・手造りと個性で本物のオンリーワンに

「私は、5歳から30歳まで東京で暮らしました。練馬区の母親の実家近くで育ったのです。その頃の飛良泉は新潟地震の罹災から立ち直るのがやっとでした」
そう言ってはにかむのが、二十六代目・斎藤 雅人(さいとう まさと)社長。昭和31年の申年生まれの彼は、都内の私立成蹊小学校から中学、高校、そして大学と一貫教育を受けました。

斎藤 社長は、飛良泉本舗に入社して18年目を迎えます。それまでは、東京の大手広告代理店の(株)東北新社で4年、その後、国税庁醸造試験場で研修し、メルシャン(株)で2年半の営業経験を積み、蔵元後継者として幅広い視野とセンスを磨きました。

「東北新社では、外国映画をTV局へ売り込む仕事でした。メルシャンはホテルの飲食部門へのワインセールスです。どちらも事業的に厳しい時期でしたので、リスクマネージメント的なことも身に付けさせて頂きました」

斎藤 社長いわく、昭和61年(1986)に実家へ戻った時は、その経験が大いに役立ったとのこと。家業から社業へ脱皮できてなかった飛良泉本舗は、酒造り以外の営業、総務や庶務といった部門管理体制が整っておらず、山積する問題に大車輪で取り組んだそうです。

昭和61年に斎藤 社長が帰秋した時は、ちょっとしたカルチャーショックもありました。
「秋田の日本酒業界の市場意識が、首都圏とかなり異なっていたのです。その頃は第二次地酒ブーム。特定名称酒が市場に浸透しきった頃ですが、その裏でレギュラー酒が徐々に低迷し、日本酒業界全体が曇り始めていました。でも、秋田ではその意識が非常に薄かったのです。確かに、その頃の秋田は日本酒王国でしたし、地元消費7割が常識なのですが、それが続くとは限らないと思ったのです。でも、地元の同業他社の方々は、まだまだ売れると信じていました」
経歴上、トレンドやマーケティングに精通していた斎藤 社長は、そんな疑問と飛良泉本舗の小規模主義をみごとに合致させます。

当時の飛良泉本舗の製造石高は、1200石ほど。由利郡一円が主たるマーケットで、売れた年には、品切れもままあることでした。県内の準大手ブランド酒には、とても肩を並べることはできません。
「それならいっそ、特定名称酒の市場で得意の“山廃”を展開すべきだと思ったのです。秋田の毎日の晩酌とは違う、新しい日本酒スタイル。しかし、決して華やかなだけの吟醸酒とは違う当社だけの酒を、首都圏へ出そうと考えました」
斎藤 社長は、酒造の総責任者である父・昭一郎会長と検討を重ね、製造部門を改良。石高を無理のない範囲で増やし、粘り強くリリースを続けた結果、首都圏で“飛良泉=山廃”のブランドが認知されたのです。

その頃から飛良泉本舗の供給方針は、地元3割、県内他市3割、そして首都圏3割と変わっていません。現在2,000石となった製造量を、斎藤 社長は効果的に分割しています。

さて、現在の飛良泉本舗のコンセプトについて訊ねてみました。
「当社の企業理念に“派手な桜の花よりも、地味ながらふくらみのある梅の花のような酒をつくりたい”という理念があります。お蔭様で“山廃”は当社の看板になりましたが、それだけに限らず、手造りと個性を大切にし続けたいですね」
斎藤 社長は、人気が高くなったからといって製造量を急増したり、先端の設備を導入してまで飛良泉の酒を売りたくはないと断言します。まずは、品質第一主義が信条。事実、飛良泉では、昔ながらの“舟(ふね)”による搾りが基本。薮田式とは異なる繊細な仕事で、珠玉の山廃酒を造り出しています。

それは、新潟地震以後の家業を振り返り、他の酒造メーカーが量産していた頃、ひたむきな手造り主義で甦ったことが、まさに今、低迷する日本酒市場を勝ち抜く条件と得心しているからなのです。
「山廃は、飲み詰めていくごとに旨味が増します。例えば、酸味とコクが“淡麗辛口”とは随分違ってきますね。ですから、吟醸酒に慣れてきた方、等級別時代から日本酒を飲みつけている方、そして日本酒に親しんでいない若い方たちにも新鮮な味を感じさせます。いわば、古くて新しいこだわりの日本酒だと思います」

そんな山廃の魅力、味わいを理解してもらう舞台作りと情報配信が、今後の課題であると斎藤 社長は語ります。

「当社の山廃は魚料理だけでなく、味の濃い西洋料理や中華料理、チーズ、肉料理などにピッタリです。普段のダイニングテーブルで楽しめる食中酒なのです。このあたりが、最近東京で好評を頂いている理由だと思います。また、都会のグルメは日々グレードアップしていますから、当社としても年々品質を向上させていかねばなりません。“山廃と言えば飛良泉”を憶えて頂くことです。そのためには、難しい薀蓄で山廃を伝えるのではなく、食とのマッチングが最も分かりやすいのではないでしょうか」

二十六代目・斎藤 雅人 社長

昨年、秋田市内のホテルがソムリエ・田崎 真也 氏を招いたグルメの会では、県内から一種類だけ飛良泉の酒が採用されました。田崎 氏がその席で参加者に供したのが、とろけるようなカマンベールチーズと飛良泉の山廃純米酒。絶妙のマッチングに、会場からどよめきが起こったそうです。

斎藤 社長の提案を聴いて、取材の夜、スタッフは仁賀保町で獲れた魚介類のクリームグラタンと飛良泉の山廃純米酒を試してみました。
これが、思わず声を失うほどの絶品!クリームソースにからむ山廃の酸味と濃醇なコクに酔いしれました。翌朝、その報告に雅人 社長は、満面の笑みで応えてくれました。
「数ある山廃の中でも、オンリーワンの山廃……それがずっと、当社のテーマです」

最後に日本酒市場の現状と、今後の抱負について、斎藤 社長の見解を述べてもらいました。
「例えばワインや焼酎ブームなど、現在のアルコール事情さえも業界内にしっかりと伝わっていないですね。昭和40年から50年代の日本酒ニーズが、いまだに存在するなんて考えもあるようです。『ちゃんと包装しないから、売れないんだ』とか『辛口の酒が流行りすぎて、甘いものが好きな消費者が逃げた』とか、根拠のない意見も聞こえてきます。そんな中、マーケットの変化や嗜好性に敏感な蔵元は、どんどん先を走っています。当社もそうありたいですし、そういうメーカーが個性を打ち出していくことで、日本酒全体の牽引になると思うのです。マスマーケティング的な一蓮托生の時代は終ったと思います。ですから、我々自身がそれぞれに努力しないといけませんね」

いつまでも奢ることなく、客観的に飛良泉を見つめたいと話す斎藤 社長。広告業界や大手メーカーなどで学んだビジネスから見れば、少し辛口な批評も飛び出すようです。
しかし、その一方では日本酒復活の兆しを感じていると言います。

「一時のワインのような、メガ的ブームは来ないでしょう。むしろ、ポツポツと灯りが点るように、和食ダイニングとか日本酒BARが生まれていることが嬉しいですね。そんな場所を創ろうとする方々と蔵元や酒販店がしっかり提携して、丁寧に造った本物の日本酒をリリースしていくことだと思います」
斎藤 社長は、そう締めくくります。

真摯なまなざしの先には、手造りの山廃に取り組む杜氏と蔵人、若い社員たちのひたむきな姿がありました。