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株式会社飛良泉本舗 ~歴史背景

応仁の乱の戦火を逃れ、千里の海を超えて来た、泉州の名家・斎藤一族

玄関から続く三和土と土蔵

霏々と降りしきる雪。一面の白い世界にふさわしい、墨染めたかのような蔵屋敷を一歩入れば、そこは五百有余年のノスタルジーに満ちていました。
ドッシリと据わる土蔵、「飛良泉(ひらいずみ)」の意匠を金泊で揮毫したウミガメの甲羅、ほのかな灯りに映える三和土(たたき)。長い上がり框(かまち)の奥からは、今にも“ちょん髷”に半被姿の蔵人や出入り商人たちが現れそうです。

「この屋敷は、明治初期に建て直したもので、140年ほど経っています。当時は、数十人の蔵人や番頭、丁稚たちが寝食をともにしていました。ここへお見えいただく皆様には、当社の“山廃”だけでなく、“酒蔵らしさ”も味わって頂いてます」
飛良泉本舗の創業は長享元年(1487)、なんと室町幕府の時代なのです。
八代将軍・足利 義政が京都東山に銀閣寺(慈照寺)を建立した年ですから、蔵元・斎藤家の崇高な歴史と伝統には脱帽せざるをえません。

九枚笹の枚

斎藤家の屋号は「和泉屋(いずみや)」、家紋は珍しい「九枚笹(くまいざさ)」という形です。
代々の当主は、二十二代目まで「斎藤 市兵衛(さいとう いちべい)」を襲名していました。そして、この屋号からも分かるように、斎藤家は遥かな泉州の地(関西)から仁賀保に移り住んでいます。

「今も大阪の泉佐野市に、斎藤の総本家が残っています。初代・市兵衛はその分家のようです。実は、江戸時代中期に、当家は泉州の斎藤本家が営んでいた廻船問屋の秋田支店の役割を果たしています。しかし、室町時代末期に初代・市兵衛がなぜ仁賀保までやって来たのかは、いまだ定かではありません。ただ、かなりの数の一族・郎党を伴っていたようですね」
昭一郎会長は、斎藤家に伝わる古文書を捲りつつ解説します。
伝承によると、初代・市兵衛一族は、関西から船に乗って瀬戸内海を渡り、関門海峡を抜け、そして日本海を北上しますが、由利海岸の沖で難破。どうにか仁賀保の芹田岬(せりだみさき)に上陸し、杉山と呼ばれる集落へ辿り着いたそうです。

芹田岬

「初代はそこで農業(主に稲作)を営み、その息子である二代目・市兵衛が長享元年(1487)に酒造りを始めています。ですから、年代的に考えますと、初代・市兵衛の若い頃は“応仁の乱”で上方が乱れていた時分ですから、おそらくは京都か大阪あたりから逃げ延びて来た商人ではないかと思うのです」
なるほど、理にかなった昭一郎会長の推察です。
いずれにしろ、未知の国へ転じながらも、その息子の代には酒造りを商うわけですから、初代・市兵衛は、才覚と金財を充分備えていた人物にちがいありません。

大福帳にある十一の印

杉山の郷に根を下ろした斎藤家は着々と繁栄します。昭一郎会長が手にする大福帳には、<十一>の印がそこかしこに押されていますが、これは飛良泉本舗の先祖である斎藤一族が十一番目に仁賀保へ入ったことを示しています。
「当家は、16の分家を構成しました。酒造りで成長し、杉山からこの平沢に移り、領主の仁賀保様に目をかけて頂くことになったのです。戦国期には酒造業だけでなく、旅籠や荷役、農作物の流通 なども商っていたようですね。江戸時代になって、元和8年(1622)の大名・最上家の改易の際には、お隣りの本荘の町から引き揚げる最上の殿様の荷駄一式を与かっています。そして江戸時代半ばには、泉州の斎藤本家の縁をもとに北前船を使った廻船問屋を始め、造った酒は北海道の松前藩へ、昆布や干物魚、秋田米を上方へ運び、上方から入手した和紙、砂糖、塩、呉服、雑穀、薬種などを分家が商っていました」

飛良泉本舗の玄関を飾るアオウミガメの甲羅は、廻船問屋の頃、船頭たちが平沢の浜で捕まえたものだとか。斎藤家の持ち船「千秋丸(せんしゅうまる)」には熟練の船頭たちが揃い、北前船を代表する海商だったそうです。
また、丁寧に造られた飛良泉の酒が、どれほど美味しかったかを伝える逸話も残っています。
読者の方々は、宝暦年間から天保年間を生きた名僧・良寛 和尚(1758~1831)をご存知でしょう。その友人で仁賀保に暮らしていた「増田 九木(ますだ きゅうぼく)」なる画家が、良寛へ宛てた手紙にトンチのきいた名言をしたためています。

飛び切り良い、白い水

つまり、「飛」と「良」を並べる「ひら」は平沢にかけた言葉で、そして「白」と「水」は上下にすると「泉」=泉州出身の意味です。
それまで斎藤家の酒銘は、中国の漢詩から引用した「金亀(きんき)」でしたが、九木の自慢話しが噂を呼び、独特の山廃酒の旨さとあいまって、酒銘「飛良泉」が誕生したのです。

江戸期の斎藤家の酒造りは、蔵主・仁賀保家の庇護のもとで発展しました。古文書の中には、仁賀保藩からの酒造株の申し渡し状も残されています。
天保2年(1831)の斎藤市兵衛が記した酒造日誌によれば、当時の酒造石高は200石となっています。酒を仕込む水は、仁賀保家より拝領した井戸から汲み上げていました。この井戸水は幕末以後、斎藤家が屋敷に引き入れ、変わることなく潤沢な山廃酒を造り続けているのです。

また、仁賀保家に娘を側室として輿入れさせた市兵衛もありました。
寛永2年(1625)蔵主の仁賀保 挙誠が64歳で没し、遺領は嫡男・良俊に7000石、次男・誠政2000石、三男・誠次1000石に分封されました。この次男・誠政と三男・誠次を斎藤家の娘が出産しているのです。
これによって、斎藤家は幕末まで仁賀保家の御用商人として安泰を守り、廻船問屋の成功によって東北の諸藩諸氏への融資も行うほどになりました。中には、数万両を借りた大名もあったようです。

「思いますに、私の曽祖父の二十二代目・市兵衛は、帳消しとなったその債権を大いに口惜しがったのではないでしょうか。明治維新になって手元に残ったのは、証文ばかりだったようです」
昭一郎会長の笑顔は、仏間に掛かる曽祖父・市兵衛の相貌によく似ています。

さて、明治初期の鉄道開通によって、全国の廻船業はしだいに衰退しました。二十二代目・市兵衛(昭一郎会長の祖父)も例外ではなく、激動の時代に揉まれながら、酒造りの道へ専念していきます。
二十二代目・市兵衛は弘化2年(1845)年に誕生。父親が早逝したため十七歳にして蔵元となり、「斎藤酒造店」を名乗っています。そして彼の時代に、プロローグ編で紹介したもう一方の仁賀保町の名士・齋藤家と縁戚を結んでいます。
斎藤家の当主・市兵衛と齋藤家の当主・茂介は、町を二分するほど大きな存在でした。しかし、幕藩体制が崩壊し蔵主を失ったこの時、両家が協力し合うことで仁賀保町を発展させねばと、市兵衛と茂介は手を取り合います。そして、茂介は愛娘を市兵衛の息子・恭太郎(きょうたろう)に嫁がせたのです。

この恭太郎が、蔵元二十三代目です。仁賀保町の町長も務め、平沢農協の基礎を作った彼は由利郡の農地測量や、鳥海山麓を流れる白雪川の水力発電所なども手がけています。
「祖父は義兄弟となった齋藤 宇一郎と、農地改革、農家の暮らしの向上に心血を注ぎました。そこには『いい酒は、いい米からできる』という信念もあったはずです」
二人の努力によって今の由利郡の農業があると、昭一郎会長は力説します。事実、当時の仁賀保町では小作争議が極めて少なかったようです。それほど、農家が不平不満なく暮らせたのでしょう。
この農業の電化・効率化への取り組みが、後年、齋藤 宇一郎の息子・憲三によるTDK株式会社へとつながったのです。

二十四代目 雅雄

大正時代から昭和初期、斎藤酒造店は千石酒屋へと躍進。そして、恭太郎の意志を継いだのが二十五代目 昭一郎の父・雅雄(まさお)です。
彼の思い出を、昭一郎は語っていました。
「雅雄は開成中学から東京大学に行けたものを、醸造学がカリキュラムになかったため、恭太郎に『蔵元を継ぐなら大阪大学の醸造科へ行け』と諭されたそうです。研究肌の人物でしたが、先輩・後輩の人脈、人作りも上手かったですね。父の言葉の一つに『麹と人間は逆だ。麹は外が硬くて中が柔らかくないといけないが、人は中身が硬くて外は柔らかくないとダメだ』がありました。歳を重ねるごとに、いろいろな訓辞が胸に堪えますね」

二十五代目 昭一郎

雅雄は、毎朝の散歩と称して蔵に祀られた3つの社を昭一郎少年と回ったそうです。
当時の蔵主はいわゆる“旦那様”ですから、よほどのことでも起こらない限り蔵の中へは入りません。つまりは、ただ単に商売繁盛・無病息災を願うのではなく、蔵人たちの仕事ぶりを覗くためでもあったのです。
「その頃、父に嘗めさせられた酒母の味が、私の山廃酒の原点なのです」
昭一郎の言葉は、飛良泉の酒がまぎれもない一子相伝の味であることを証してくれました。
戦時の企業統制を分離操業で乗り越えた雅雄は、蔵人だけでなく、仁賀保の町の人々からも惜しまれながら、昭和27年(1952)に六十四歳の生涯を終えています。

そして、二十五代目の昭一郎氏の時代、心胆を寒からしめる大事件が斎藤酒造店を襲います。
昭和39年(1964)6月16日、午後1時すぎ、新潟県の粟島南方沖を震源とするM7.5の地震が発生したのです。この「新潟地震」は、死者26名、家屋全壊1960戸、半壊6640戸、浸水15298戸となり、被害は秋田県南部から新潟北部に集中しました。
仁賀保町も壊滅的な状態でした。斎藤酒造店の土蔵は崩れ、タンクは傾き、酒瓶は砕け散り、途方に暮れた昭一郎氏は廃業を決意するほどでした。

「歴史ある暖簾をたたむのは、何としても避けたかったのです。結局、金融機関や酒造組合の援助などもあって再起を図ることができましたが、背水の陣の覚悟でした。蔵の修復に1年半かかり、ようやく操業できたのは2年後、完全に経営を立て直すのに15年を費やしました。同業他社が急速に売上を伸ばした昭和40年代、当社は疲弊しきっていました。いわゆる清酒ブームに乗り遅れ、倒産の噂も囁かれるほどでした。でも、それもいい教訓だったと思うのです。あの苦境を乗り越えたからこそ、今の飛良泉本舗があります」
昭一郎氏は「こうとなったら、何も恐れるものはない」とばかりに、売れ筋のアル添酒になど目もくれず山廃一筋の道を突き進んだのです。
昭和43年(1968)には、株式会社 飛良泉本舗に改組。その後は、丹念な山廃造りに徹する戦略が徐々に市場へ浸透し、第二次地酒ブームが到来した平成初期には、秋田の銘譲の地位を奪還するのです。

現在、飛良泉本舗の代表取締役社長は、二十六代目にあたる斎藤 雅人(まさと)氏です。昭一郎会長の長男で、平成9年(1997)から現職を務める雅人 社長は、山廃の味わいだけでなく、蔵そのものが「個性的」であることも飛良泉のポリシーと言います。
なるほど、蔵玄関の風情あるしつらえや演出は、雅人 社長のこだわりのようです。
そして、飛良泉の真骨頂をまざまざと実感したのは、取材を終えたスタッフが試飲した搾り立ての原酒でした。
どこまでも深く響き、酒の魂を感じる味わい……そして、しみわたるような喉ごし。一同口をそろえ、ひと言「これこそ……飛び切り、良い酒」。
その山廃のひとしずくは、まさに530年の星霜を秘めているかのようでした。