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株式会社飛良泉本舗 ~プロローグ

群れ飛ぶカモメの声を、海鳴りが掻き消します。横なぐりの猛吹雪に、夥しい波が鉛色の怒涛となって砕け散っています。1月末、秋田県にかほ市の日本海は大シケが続いていました。
遥かな南の方角には、雪雲にすっぽりと覆われた鳥海山の稜線がにじんでいます。
海岸線にひしめく松の防風林は弓なりにたわみ、先人たちが積み上げた「波除石垣(なみよけいしがき)」には、白い波の花が咲き乱れます。

仁賀保(にかほ)町の平沢港には、幾杯もの漁船がじっと停泊したまま。いつもなら特産のハタハタ漁で賑わう季節なのですが、雪に覆われた湾内には翼を休める海鳥が宿り、寂寥とした冬景色を描き出しています。

この平沢港は、江戸時代中期から幕末にかけて、日本海を航行した「北前船(きたまえぶね)」の港として栄えました。秋田の米や干物魚を積み出し、上方(京都・大阪)からは塩や綿、砂糖、衣服を受け入れたのです。
大正11年(1922)に鉄道が延伸するまで、平沢港界隈では船持ち商人が豪壮な屋敷に住み、この地における商品流通を担うことで、町は大いに賑わったと伝わります。

実は、今回の訪問先である株式会社 飛良泉(ひらいずみ)本舗も、500年以上前に大阪の泉州(現在の泉佐野市)からこの地に移り住み、千石船数十隻の舵を取った家柄。いわゆる廻船問屋でした。
しかしながら、荒れ狂う日本海を目の当たりにしていると、計り知れないほどの遭難もあったにちがいないと、寒さにも増して身が引き締まる思いです。

ここ旧由利郡の地名は、平安、鎌倉時代の領主・由利氏に由来しています。
武士の時代が訪れつつあった文治5年(1189)、源 頼朝の奥州・藤原氏征伐が始まり、由利の地にも27万人の軍勢が陸続とやって来ました。
頼朝は、土豪の頭領・由利 八郎を反逆者として捕らえますが、八郎の改心と忠誠心に免じて、知行を認めます。つまりは、由利氏は鎌倉幕府の御家人となったのです。



しかし、正治元年(1199)に頼朝が没すると、鎌倉幕府の執権職をめぐって北条 義時と和田 義盛の対立が表面化、ついには建保元年(1213年)和田合戦が勃発。和田氏側についた由利氏は、敗北後、執権の北条氏によって所領を没収され、衰退していったのです。
その後、信濃源氏の血を引く小笠原氏の所領となりましたが、南北朝時代から室町、戦国時代にかけては地侍が台頭し、由利地方の覇者はことごとく入れ替わります。“由利十二頭”と呼ばれる武家たちが広大な土地を切り分け、その中に「仁賀保氏」が存在しました。

仁賀保氏は小笠原氏の後裔とされ、応仁元年(1467)に古い砦だった「山根館」を改修し、ここに居を構えました。
仁賀保氏の三代「挙久(きよひさ)」から七代「挙誠(たかのぶ)」までは、同族の矢島大井氏との争いが絶えず、城主討死という悲劇を繰り返しながらも、文禄元年(1592)宿敵大井氏「荒倉館」を攻め滅ぼします。

豊臣 秀吉の時代には由利十二頭の数家が改易され、残った仁賀保氏も含め「由利衆」として扱われました。朝鮮出兵の際には、戦国大名・大谷 吉継の軍勢として与力的に配属されています。



そして慶長5年(1600)、挙誠は徳川 家康の誘いに応じます。
由利の諸将とともに山形の領主・最上氏の旗下に加わり、上杉氏の膝元である庄内へ攻め入った挙誠は、論功行賞により常陸国・武田五千石を与えられ、山根館を去ります。ところが、元和8年(1622)の最上氏改易によって、仁賀保氏は再び由利の土を踏むこととなりました。
22年ぶりに故郷へ戻った挙誠は、禄高も一万石に増え、仁賀保に隣接する象潟(きさかた)の地に城を構えました。
挙誠の死後は、長男の「良俊(よしとし)」が七千石、二男「誠政(のぶまさ)」二千石、三男「誠次(のぶつぐ)」が一千石と、家禄を三家に分割。やがて七千石の本家筋は嗣子がないまま御家断絶となり、二千石家と一千石家は旗本として幕末まで存続したのです。

さて、由利地方の魅力を知る上で欠かせない人物……それは、俳聖・松尾 芭蕉です。

象潟や 雨に西施が ねぶの花

元禄2年(1689)6月、「奥の細道」の途上に象潟を訪れた芭蕉は、「九十九島(つくもじま)」として名高い小島と岩礁が点在する海に、うっとりと見惚れたといいます。当時の象潟は「日本海きっての借景」といわれ、宮城県の景勝地「松島」に勝ると劣らない美しさだったそうです。

霞たなびく静謐な景色に、越(中国)の時代の美女・西施(せいし)が住んでいた太湖を想いつつ詠んだ一句ですが、残念ながら現在の象潟にその面影は薄れています。
というのも、今を遡ること200年。文化元年(1804)に発生した大地震は、一夜にして象潟の海岸線を隆起させ、島を小高い山へ変えてしまったのです。

かつて、芭蕉が脚絆を解いた「蚶満寺(かんまんじ)」。その境内には、銅像と句碑が建てられ、銀世界の中、丘となった「象潟島(きさかたじま)」が往時を偲ばせるように佇んでいます。
旅の途上、ひょっとして芭蕉は、飛良泉の美酒にも酔いしれたのでは……そんな夢想が胸を温め、厳寒の光景を忘れさせるのです。

そして、仁賀保町が誇る存在といえば、オーディオ・エレクトロニクス業界で躍進するTDK株式会社でしょう。
TDK株式会社の前身は、昭和15年(1940)平沢地区に誕生した「東京電気化学工業」。その創始者は、仁賀保町出身の「齋藤 憲三(さいとう けんぞう)」でした。

齋藤家は、代々仁賀保氏に仕える肝煎庄屋的な身分でしたが、明和8年(1771)に仁賀保二千石家から小姓格三人扶持の士分に取り立てられ、以後、幕末まで町を支える名士として活躍しています。

また、憲三の祖父・茂介、父親の宇一郎も、明治時代以後の仁賀保町の発展と振興に大きな足跡を残しています。
仁賀保町は古くから地盤のゆるい湿田地帯で、稲作にてこずり、米の収穫は非常に少ない地域でした。しかし、明治時代半ばになって農業の近代化が始まると、茂介は山形県庄内地方の稲作方式「乾田馬耕(かんでんばこう)」を取り入れようと、指導者を招きます。

確かに、入排水による水田の乾燥、区画の整理、馬力による耕作は画期的なものでしたが、不慣れな農民たちは「稲は水で育つのに、田を乾かしては米はとれない」と、受け入れに難色を示します。また、区画整理によって先祖から受け継いできた土地が切り取られ、損失を訴える事件も多発しました。 努力の甲斐なく、茂介は乾田馬耕の成功を見ずして亡くなりますが、その意志は息子の宇一郎に引き継がれたのです。

宇一郎は耕地整理組合長となり、ついに大正元年(1912)500数ヘクタールの水田を整理します。以後、由利郡の稲作は目を瞠るほど向上し、良質の米と苦労のない農作業が約束されたのです。
これらの齋藤家の多大な貢献を賞賛し、仁賀保町には「仁賀保・齋藤神社」が祀られ、宇一郎の像も建てられています。

そして、この齋藤家と飛良泉本舗の蔵元である斎藤家は、遠祖を異にする存在でしたが、奇しくも仁賀保町を支える二本柱として、縁戚関係を結んでいるのです。
北前船で運ばれた上方文化とみちのくの武家風土が織りなす、仁賀保の魅力。
その連綿たる歴史と伝統は、取材スタッフ全員が「すばらしいのひと言に尽きる!」と絶賛した、銘酒・飛良泉「山廃純米酒」に秘められているようです。
“日本で三番目に古い蔵元”として知られる、飛良泉本舗。その“ふなぐち”から搾られる艶やかなしずくを、心ゆくまで堪能することにしましょう。