

漆喰の土蔵を入ると、ヒンヤリとした冷気と甘い酒母の匂いが鼻先をくすぐりました。
プツプツと醗酵する酒母はやや黄色を帯び、立ち香を嗅いでみれば、ほのかな酸味を感じます。
「つぶさに観察して、じっくりと熟成させることが山廃の基本です。ですから、普及している協会酵母による速醸酒母とは、まったく手間ひまが異なります。日数だけで比較しても、速醸酒母なら2週間で仕上がりますが、山廃は30日ほど必要なんです。ですから、手のかかる我が子を育てるようなものですね。温度管理などの微妙な作業、精神的な集中を含めれば、速醸仕込みの10倍ぐらい大変でしょう」
そう言って酒母タンクを覗かせてくれたのが、飛良泉本舗の藤原 長一(ふじわら ちょういち)杜氏。酒王国・秋田県を支える山内杜氏(さんない とうじ)の一人で、昭和17年(1942)平鹿郡増田町の出身です。
藤原 杜氏は、中学卒業と同時に酒造りの道へ入り、秋田、関東の酒蔵4社を経て、平成3年(1991)に飛良泉本舗へ入社。製造部の総責任者である斎藤 昭一郎 会長の指導を受け、平成14年(2003)からは杜氏として現場を束ねています。
この日も山廃仕込みを控え、多忙な時間を割いてのインタビューでした。
さて、読者の方々は、“山廃”と聞いてどんな日本酒なのか、ピンと来るでしょうか?「色が濃い」とか「ちょっと酸っぱい」とかだけでなく、もし、スラスラとその特長を説明できるとしたら、なかなかの日本酒通であり、山廃愛好者ではないでしょうか。
そこで藤原 杜氏に、あらためて解説をお願いしました。
「昔の酒造りは、蒸米、麹、水を仕込んだ後で、櫂棒と桶ですり潰していました。“山卸(やまおろし)”と呼ばれるキツイ仕事でしたが、技術向上によってそれを廃止したわけです。だから“山廃仕込み”なのです。山廃仕込みでは、空気中の乳酸菌など微生物の力をいっぱい借りて、自然のままに酒母を培養・育成します。つまり、微生物によって有害な雑菌を滅し、酵母がしっかり育つ環境を整えることができるのです。そうしながらも微生物は、麹から生まれた糖分と乳酸菌の造る乳酸によって死滅するのです。そして最後には、強まった乳酸も出来上がったアルコールで弱まります。ですから、自然の摂理にかなった醸造方法ですよ。分かりやすく言えば“日本酒の原点”。何よりも“日本酒らしい日本酒”ですね」
藤原 杜氏は頬を赤らめつつ、素朴な笑顔で解説してくれました。なるほど、手造りに徹する飛良泉の杜氏ならではの名解答でしょう。
ひと口に山廃と言っても、それぞれの酒蔵ごとに麹、酵母、水、技があり、その違いは速醸酒母よりも顕著になると藤原 杜氏は言います。
では、飛良泉の山廃の特長について質問してみましょう。
「まずは酵母ですが、飛良泉独自の7号酵母を主に使っています。これは協会7号が当社の環境へなじんだオリジナル酵母です。
米の味を最大限に引き出せる丈夫な酵母で、乳酸発酵も一段と活発になります。当社の山廃は酸味の強さが特徴です。水との関係もありますが、協会酵母では乳酸醗酵が少なくて、求める酸味が得られないのです。現在の酵母は使い始めて15年目になりますが、大変気に入っています」
藤原 杜氏は、独自酵母が昭一郎 会長の努力によって開発されたことを付け加えます。
その理由を訊いてみると、若かりし頃の昭一郎 会長が研究者として師事した東京大学教授の言葉にあるそうです。
「清酒の大量生産が始まった昭和20年代半ば、会長はその恩師から『斎藤君は、山廃のような“純粋な日本酒”を大事にしてくれよ』と、しきりに諭されたそうです」
藤原 杜氏が明かしてくれた秘話を聴きながら、杜氏部屋の窓を見れば、現場には白衣姿の昭一郎 会長が……その矍鑠とした指導に、筆者の胸はジンと熱くなります。
極上の山廃酒に欠かせない仕込み水は、鳥海山系の伏流水とのこと。
歴史編でもレポートしたように、五百年以上にわたって仁賀保 蔵主が使っていた由緒正しき井戸水が、今も飛良泉本舗の蔵に滾々と湧き出ています。
「この“鳥海山の雪解け水”ですが、不思議なことに、同じ由利郡でも湧き出る場所によって軟水もあれば硬水もあります。当社の水は硬水で、硬度は5~6度。ミネラル分の豊富な水です。“灘の宮水”に似ていますね。ひょっとして、仁賀保の土壌にも砂とか貝殻のような層があるのではないでしょうか」
藤原 杜氏に勧められ、筆者が口にした井戸水は、やや舌に味を感じながらもまろやかな喉ごし。この微妙な味わいが、飛良泉の円熟味を醸し出す名脇役でもあるようです。
ちなみに、由利郡の日本海で獲れる天然岩牡蠣は、ミネラルたっぷりの鳥海山の水が流れ込む場所で育つそうです。
「真夏の岩牡蠣は、当社の山廃酒と抜群の相性ですよ」
藤原 杜氏から、思わず白い歯がこぼれます。
酒米については“美山錦”を中心にして、大吟醸はもちろん“山田錦”。最近は、秋田県産米として好評を博している“秋田さけこまち”も採用しています。
藤原 杜氏は、山廃仕込みでは、米の個性や収穫の状態も細かに調べていないと、ちょっとした酒母の変化を読み取れず、失敗することがあると言います。そんな酒米の吟味でも、昭一郎 会長の存在は大きいそうです。例えば、秋田さけこまちの開発には会長自らが携わっていたこともあり、その特性を生かした酒質が研究されているのです。
「昨年は全国的な冷夏でしたから米が良くなくて、なおかつコストも高くなっています。しかし、こんな時こそ精白にこだわり、さらに良い飛良泉の酒を造ろうと、会長、社長始め、全社員が頑張っています。当社は小さな造りの酒蔵ですが、だからこそ、それぞれの気持ちや心がまえが、人にも酒にも浸透するのだと思います」
インタビューが終るやいなや、律儀な礼をして現場へと向かった藤原 杜氏。その自信に満ちた背中には、「山廃の飛良泉」のブランドマークが何よりもふさわしく思えました。ここには“本物の手造り”がある。
その大きな感動を、小さな酒蔵「飛良泉本舗」が教えてくれたのです。