TOP> 地酒の旅 蔵元紀行

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 伏見の町の誕生は、かの豊臣秀吉が文禄3年(1594)に壮麗な伏見城を普請してからのこと。
 秀吉自身の隠居後の居所として造られ、歴代3度にわたって築城され、初めに指月山に造られたものを「指月山伏見城」、木幡山に移されたものを「木幡山伏見城」と区別 されています。
 さらに、木幡山伏見城は、関ヶ原の戦災後に再建された徳川家の遺構もあります。
 秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康がこの伏見城を与ったのでした。
 関ヶ原戦の際、家康の家臣・鳥居元忠が守っていましたが、石田光成方の島津軍に攻められ焼失しています。
 その後、家康によって再建されますが、三代将軍・家光の将軍宣下が済むや、一国一城の法度により、一木一石余すところなく廃城され、主な建築物や石垣は京都一円の城や寺社に移され、それらは現在、伏見城遺構として名残をとどめるにいたっています。
 また、秀吉から家康に継がれた伏見の姿に、「宇治川流派」と呼ばれる水路網があります。
 京の洛中と伏見を結んだその流れには、高瀬舟が行き交い、さらに伏見の川港からは、 「十石舟」や「三十石舟」が大坂までの運航。多くの旅人や商人が、利用していました。
 そんな十石舟が、伏見の観光事業の一環として現代に復活し、「水運でめぐる酒蔵のまち 京都伏見 十石舟」として人気を集めています。
 * 参照:伏見夢工房 http://www.kyoto-fushimi.com/index.html )

 ところで、伏見と聞けば誰しも幕末のステージを思い浮かべますが、その一画には戦国時代の哀話も隠されています。
 天正10年(1582)明智光秀は、天下を狙う秀吉軍に摂津山崎の天王山で破れ、敗走します。そして、伏見の外れに位 置する小栗栖(おぐるす)という場所で、落ち武者狩りの竹槍によって命を落としました。
 六地蔵から旧・小栗栖街道を北に辿ると、閑静な住宅街を縫うように行き交う細い小路に行き着きます。
 そこに、光秀が討たれたとされる“明智薮”が残されています。枯れ寂びた藪の中、冷ややかな木枯らしが吹き抜け、寂寥とした雰囲気を漂わせていました。
 さて、名神高速・京都南ICから国道1号をやや南下した所(伏見区中島鳥羽離宮町)に、城南宮があります。
 平安遷都以来の都の守護、方除けの神として仰がれ、平安末期には鳥羽離宮が造営され院政の執られた所であり、また明治維新を告げる鳥羽伏見の戦いが勃発した地としても知られます。
 その表参道の西側、国道1号を渡るとすぐに、鴨川にかかる小枝橋があります。慶応4年(1868)正月3日、鳥羽伏見に始まる戊辰戦争の発火点となった場所です。  その日の午後4時頃──。
 小枝橋付近で大目付・滝川具挙の率いる幕府軍が「勅命で罷り通 る」と告げると、薩摩軍の椎原小弥太が「そげな話ば聞いておりもはん」と拒否。言い争いの末、幕軍が問答無用と前進を開始するや、表参道に据えられた薩軍のアームストロング砲4門がいっせいに火を噴いたのでした。
 この鳥羽伏見の戦いで伏見の街は壊滅的な打撃を受け、以降、この地は経済崩壊の一途をたどります。その衰運に歯止めをかけたのが、明治31年(1898)、京都再興のためにと集められた歩兵三十八連隊、第十九旅団司令部、京都連隊区司令部などの軍隊です。そして同41年(1908)には、それら各隊を統括するためにと、深草の地に第16師団司令本部が設営されたのでした。
 現在、この司令本部の建物は、聖母女学院本館として遺り、今なお洋式のクラシックな容姿を誇っています。

 そして、今ひとつ、伏見の経済基盤の主役として登場したものがあります。それが、この地の名水に育まれた“伏見の酒”でした。
 豊かな地下水脈に恵まれた伏見は伏水とも書かれ、“伏見の七つ井”はその名残を今に伝えますが、中でも「白菊井」は秀吉の伏見築城で埋没したとは言え、七つ井すべてを含むこの一帯の地下水を白菊水とする説もあるほどで、御香宮の御香水とともに、夙に知られる伏見の名水だと言われています。
 その白菊水を仕込み水で酒造を続けてきたのが、銘酒「神聖」で知られる延宝5年(1677)創業の老舗・山本本家。上品な京料理に合う伏見の酒として、明治の昔から首都圏までもファン層の広がりをみせる伏見のしずくです。
 伏見酒の伝統と文化を、その名蔵の哲理に拝見することとしましょう。