

黒部市街から宇奈月温泉へ向かう旧・北陸街道を行くと、田園地帯の中に白亜の建物が現れます。屋上には「銀盤」の大看板が掲げられ、その周辺には-5℃の低温貯蔵を誇る巨大な貯蔵タンク群や、酒瓶ケースを堆く積み上げた敷地も望めます。
「私の先祖は、代々この荻生の地で暮らしております。この付近にも、あちらこちらに土地は少し残っています。祖父は余剰米を使って酒造りを始めました。今ではすっかり雪も少なくなりましたが、昔は豪雪地帯で、冬場の農家には仕事がありません。ですから、酒造りの人手は困らなかったようですね」
銀盤酒造三代目の堀川勲(ほりかわ いさお)社長は、取材スタッフに応接室からの眺めを紹介しつつ、蔵元の歴史を語り始めます。
銀盤酒造の創業者は、堀川 与次郎(ほりかわよじろう)。明治43年(1910)に酒蔵を始めた人物で、養子縁組によって堀川家を継いでいます。創業時の酒蔵の規模は、100石~200石ほどでした。
非常に温厚な人物で、人望もありました。堀川社長の幼い頃、地元の若い衆たちが祖父のもとを訪れて相談や世間話しをしているのを、よく目にしたそうです。
与次郎は人の心や気持ちを汲むのが上手で、少々ならず者のような人たちからも敬われていました。人当たりの良い気質が商才へとつながったわけですが、その根本には、養子として育った辛抱と強情を併せ持っていました。
与次郎の精進で、堀川家の醸造酒は近郷でも評判となります。地元の名家の総領でもあったことから、与次郎は公職にも押されますが、人前にしゃしゃり出ることを嫌う彼は頑なに断り、蔵元の道へ徹したのです。そのため、与次郎の息子で二代目の恒次郎(つねじろう)は、父の代理として村会議員を受けることになりました。
さて、二代目を継いだ堀川 恒次郎(ほりかわつねじろう)は、明治29年(1896)に誕生しています。25歳の頃から荻生村の村会議員を務め、また家業では与次郎を補佐しながら、蔵元を継承しました。
「父は、曲がったことが大嫌いな人物で、例えば、『鉄瓶の取っ手が曲がっていることも気に食わない』ほどでした。一度こうと決めたこと、筋の通らないこと、誤魔化すことが許せない人でした。ですから、酒造りに厳しいだけでなく、取引や金銭感覚もきっちりとしていました。ある時、お客の所に酒代を請求に行くと、その人物が金は払えないと居直り、畳に包丁を突き立てたのですが、父は『それは何の真似ですか?』と平然として切り返し、ビタ一文まけずに回収しました。人を見て法を説いた祖父とは正反対でした。私の場合は、祖父の隔世遺伝でしょうね。父に比べて、商売がまったく下手です(笑)」
蔵元として大きく成長し、酒を造れば売れる時代でしたから、父親の強引な商売も通 用したのでしょうと堀川社長は笑います。
この二代目・恒次郎の時代に、「銀盤」の酒銘は生まれました。由来は、昭和6年(1931)初めて黒部に完成したスキー場にありました。ほんの小さなスキー場でしたが、白銀のゲレンデを目の当たりにした恒次郎は、「ああ、なんて美しい。これぞ、銀盤だ!」と感激し、自社のブランドとして名付けたのです。
この後、銀盤の酒銘は富山県内に知れわたり、昭和10年(1935)には1300石を醸造。「千石酒屋」の規模へと発展するのです。
太平洋戦争の終焉とともに銀盤酒造は着々と業績を回復し、昭和30年代後半の製造量は1万石へ迫りました。しかし、昭和40年代には全国的に日本酒が余り始め、銀盤酒造でも薄利多売の年を迎えます。この苦境を乗り越えたのが三代目・堀川 勲現社長でした。
堀川社長のプロフィールは蔵主ページでも紹介しますが、極めて機械技術に詳しい人物です。昭和20年(1945)の終戦前に広島県大竹市の潜水学校へ入校し、魚雷の研究製造にも関わっていました。
ようやく蔵元後継者として板に付いてきた頃、大手メーカーが北陸市場に進出を始め、これに対抗するため堀川社長は地元業界人と販売促進を検討する日々。連夜の酒席をこなしながら翌朝に宿酔する堀川社長は、はたと気づきます。
「こんなに頭が痛くなる酒は、ダメだ。酒が売れるからとは言え、黒い米(低精白)を使ったアル添酒を造っていたら、いつかは日本酒が飲まれなくなってしまう!」
当時に高精白の「吟醸造り」をやろうとすれば、途轍もない人件費と材料費が必要でした。また、精白を業者委託しても、どんな質の米が帰ってくるか予想もできませんでした。しかし、堀川社長は敢えて挑戦します。そこには、機械技術者としての経験と緻密な計画、天性の勘があったに違いありません。
醸造用糖類との決別、自社精米機の導入によって、昭和48年(1973)には利益が拡大。おりしも第一次地酒ブームが到来し、新製品「純米大吟醸米の芯」の味と銘は一躍全国に伝播したのです。
昭和50年代に入り、機を見るに敏な堀川社長は大胆な行動に出ます。資金40億円を投入して、蔵を大改造。精米から瓶詰めまでの全工程を徐々にオートメーション化して行くという、地方の蔵元としては尋常ならざる決断を下したのです。
「理由は、高い技術を持つ職人たちが少なくなったためです。昭和40年以後、黒部にも大企業が進出し、地元の優秀な人材を採用するようになりました。すると、旧来の地場産業に入る若者が減少するわけです。いざ採用しても、すぐ傍に近代的な企業があれば、いろいろと比較しますね。こうなると、年配の杜氏や蔵人たちとの徒弟関係にも馴染めなくなります。ですから、人的な技術の向上は難しくなるのです。当時の機械設備は今のように精度の高いものではありませんから、少しずつ、一歩ずつ進めました。こうすることで、高精白も麹造りも仕込みも、上質レベルで安定させることが可能になります。そのためには、機械メーカーとガップリ組んで試行錯誤を繰り返し、当社ならではのオリジナルシステムを作ることでした。
しかし、頑固一徹で財布の紐のきつい父は、なかなかウンとは言ってくれません。そこで、こんなことまでやってしまったのです(笑)」
苦笑いする掘川社長が打ち明けてくれたのは、とんでもないエピソードでした。
堀川社長は、新しい設備を考え工事に着手すると、機械技術者の血が騒ぐのか、改造中にも次から次へとアイデアが浮かぶそうです。そこで、すでに出来上がりつつある建物を潰し、新たに建て直そうとしたところ、父の恒次郎は「勝手なことを言うな。そんな無駄なことは断じて許さんぞ!」と激怒し、気まずい雰囲気になりました。
いつまでも喧嘩していては埒が明かないと思った堀川社長、父親に「お父さん、私が悪かった。お詫びに海外旅行を手配しました」と、ヨーロッパ旅行をプレゼントします。
そして2週間後、帰宅した恒次郎は唖然茫然。何と新社屋は雲散霧消し、きれいサッパリ更地になっていたのです。
平成以後も銀盤酒造の設備化は着々と進み、年間製造量は2万2千石。現在はコンピュータ制御された巨大な蔵に十数名の社員(8割が女性)が働いており、いかに省力化と効率化が完成されているかを実感できます。しかし、通算22回の金賞受賞は、見事としか言いようがありません。
「最高の米を確保し、高精白に徹し、頭の痛くならない日本酒を造って、たくさんの皆さんに手軽に飲んでもらう。それが、私の仕事です。そのためには、人的なコストを機械設備に置き換えながら、良い原料と新しい技術を確保することです。近い将来、当社はフルオートメーション化した無人の蔵を作り上げるつもりです。大手メーカーならいい設備や技術を掴んだらドーンと一気に投入するでしょうが、当社はシャクトリ虫のように少しずつ着実に進めています。その日が来るまで、まだまだ第一線で頑張るつもりですよ」
堀川社長は今年79歳を迎えますが、その矍鑠とした風貌で「生涯現役」を宣言してくれました。蔵近くに滾々と湧き出る清水(しょうず)のように、銀盤酒造から新たな美酒が湧き出るのも、遠い日ではないようです。