


春霞む富山湾は、ひと月前までの日本海の怒涛をいずこともなく消し去り、すっかり春の海へと様変わりしています。立山連峰を仰ぎ見れば、雲間から射し注ぐ光芒が白い嶺を眩いばかりに輝かせ、銀雪も陽光を待ち侘びていたかのように解け始めていました。
立山の雪解け水は峻険な黒部峡谷へと滑り落ち、一方では山肌へと染み渡り、黒部平野の地下数百メートルで網の目のように濾過されます。そして、100年以上をかけて「黒部扇状地湧水群」と呼ばれる地下水脈を巡りながら、湧き水となってこの一帯を潤しています。これが、日本名水百撰に選ばれた「黒部の清水(しょうず)」です。
その膨大な水は立山の懐から黒部沖の海底まで、自噴水として絶えることなく湧き出しています。
黒部川流域面積の98%は山岳地帯、世界でも有数の急流です。また、川沿いには雨・雪が多く、江戸時代までは毎年大洪水、土石流に見舞われてきました。日頃は穀倉地帯に恵みをもたらす大河ですが、別名「あばれ川」とも呼ばれ、民衆を震え上がらせていたのです。ちなみに明治時代、堤防技術の指導者としてやって来たオランダ人技師が、黒部川を目の当たりにして「これは川ではない。滝だ!」と叫んだそうです。
その理由は、細く急な黒部峡谷を縫う水が平野部に達するやいなや一気に押し出されるためで、水量が多く、当時の河口幅は4km以上もありました。(現在の川幅は600m)

天保10年(1839)、この地を治めていた加賀前田藩は、大飢饉が過ぎ去ると滑川出身の治水土木家・椎名道三(しいなどうざん/1790~1860)に黒部川支流の開拓を命じています。農家の息子だった道三は治水に極めて関心が強く、「宮野用水」「三ケ用水」「若栗用水」など黒部川の水を用水として引き込み、流域をめざましく開拓します。この頃から、磐石な堤を築くなど水害対策技術も向上しました。
また、近代に入っては、昭和31年(1956)に「世紀の大事業」と謳われた黒部ダム(黒部川第四発電所)建設に関西電力が挑み、7年の歳月と513億円の巨費、1千万人を超える労力を投入して、昭和38年(1963)6月に完成しました。
これ以後、黒部川の氾濫は皆無となり、涸れた川岸に残される水流防護用の基塁に「暴れ川」の姿を想像することができます。川沿いでは、現在86%近く完成したという「北陸新幹線」の高架橋工事が急ピッチで進められていました。
さて、黒部の町を散策してみると、そこかしこに「清水(しょうず)」が溢れています。野菜や食器を手にした女性たちが一人また一人と現れる共同湧き水場は、井戸端会議ならぬ水端会議で賑わっています。
清水(しょうず)はもちろん飲料水としても公認され、黒部名水公園の清水(しょうず)を始め市街には20箇所ほどの湧き水場があり、市民生活を潤しているのです。
水道の蛇口を捻ってもよし!湧き水口で汲んでもよし!いずれにしても、全国屈指の天然水をふんだんに使える黒部市民が羨ましいかぎりです。
今回の訪問蔵元・銀盤酒造も、無味無臭のこの名水を使った銘酒「米の芯」で一躍名を馳せています。事実、北陸街道沿いに建つ銀盤酒造株式会社の近くで、江戸時代まで旅人が喉を潤していた「箱根清水(はこねしょうず)」が、今も滾々と湧き出しているのです。
清水(しょうず)は、黒部の産業にも天恵をもたらしています。アルプスの豊かな滋養を含んだ水は地下水脈を通って富山湾へ流れ込み、ふんだんな種類の魚介類を育てるのです。
春先の黒部港では、のどぐろ、ほたるイカ、トラフグ、ヒラメ、白エビ、ふくらぎ(ブリの子)など、極上の天然魚が揚がります。これらは「キトキトの新鮮魚」として人気が高く、全国各地へ高級魚として流通し、グルメたちの垂涎の的となっています。
そのせいでしょうか、黒部港は頻繁に漁船が出入りするため、日本で始めての旋回式橋が架けられています。このたもとから漁港界隈をそぞろ歩けば、小魚を干すのどかな風景を目することもできるのです。
また、清水(しょうず)は世界的企業を生み出したとも言えるでしょう。富山県と言わず、日本を代表する大企業「YKKグループ」は、昭和40年代から50年代にかけてアルミサッシを主とする軽金属工業で飛躍しましたが、実は黒部市に産声を上げています。市の中心部には広大な工場棟が建ち並び、黒部市民の約7割がYKKグループに従事していることも頷けます。
つまりは、無尽蔵に湧き出す清水(しょうずは)は、工業用水としても最高の水であったわけです。
YKKグループでは黒部の自然科学に対する関心と理解を深める場、自然の神秘に感動し創造の喜びを知る場として「黒部市吉田科学館」を開設。市民や観光客に、立山や黒部の自然との共生をアピールしています。
そして、清水(しょうず)は、黒部が天下に誇る美酒も生み出しました。穏やかな口当たりと滑らかな喉越しを持つ、超軟水の清水(しょうず)。醸す酒は極めてキレの良い、爽やかな辛口、それが今回取材する銘酒「銀盤」の特徴なのです。
万年雪を積む立山アルプスと清冽な黒部峡谷……厳しくも豊かな環境風土のもとで、この黒部の町だけに与えられし天稟の水「清水(しょうず)」。そのしずくで醸す「銀盤」には、さて、どんな物語が秘められているのでしょうか。
数百年の水の旅をたどるかのように、じっくりと拝見してみましょう。