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皇国晴酒造株式会社 ~歴史背景

町を散策すれば、そこかしこに清水(しょうず)の湧く生地の町。その郊外には、江戸時代の黒部の姿を髣髴とさせる湿地が、今も散在しています。
生い茂る葦の葉の彼方に霞む、万年雪をかぶったアルプスの峰々。その雪解け水は、80年から100年後に清水となって、この町に溢れます。つまり、黒部市の平野部は、遥かな昔から“潟(かた)”に囲まれていたわけです。
江戸時代、黒部を含む越中国は、加賀・前田藩の領地でした。外様大名の筆頭である加賀藩に課せらた年貢は莫大で、藩は窮迫する財政をしのぐため新田開発に注力しました。
寛文10年(1670年)の加賀国・能登国・越中国の郷帳によれば、越中国は村数が最も多く、1,790カ村が存在しています。この村々に、黒部川本流から農業用水を引き込んでいたのです。

そんな湿地の名残りが、皇国晴酒造の所有する土地にもありました。
「今は潟を埋め立てた黒部市総合運動公園など、市民の憩いと集いの場に生まれ変わっています。体育館や温水プール、黒部市美術館、親水空間“きららの滝”広場、モニュメントの“風の塔”など、多くの施設がありますよ」
皇国晴酒造株式会社の 岩瀬 新二 社長は、黒部市を全国にアピールする顔役の一人です。
「子どもの頃は、どんよりした空と枯れ葦の茂る潟が黒部を包んでいて、こんな暗い土地は、いつか出て行ってやると思っていたんですがねえ(笑)」
冗談を交えるユニークな岩瀬社長に、蔵元の歴史をインタビューしてみました。

「岩瀬家は、先祖代々この土地に暮らしていたことは確からしいですが、その立場や生業はいろいろと持っていたようです。最も古い記録では、寛永年間(1624~1643)に古着を商う鑑札も所持していたことが分かっています。さらに、言い伝えによると生地(いくじ)の漁師を仕切る網元をしていたようです」
なるほど、この2つの説は生地が港町として長い歴史を持っていることから考えると、結びつきます。
つまり、日本海を航行していた「北前船」の寄港地跡が、富山県には点在していたのです。

北前船は、米や塩などあらゆる生活物資を上方(大坂)と松前(北海道)の間で輸送していました。

大坂を出て、日本海を北上する船の中には、京都の古着も積まれていました。今日で言うリサイクル商品です。そして、反対に大坂へ向かう船には、富山湾で獲れた生地の干物が積まれていたのでしょう。
そう考えていくと、古着商と網元を兼ねていた岩瀬家は「廻船問屋」だったのではと筆者は推論してしまいます。
不思議にも、この説を裏付けるかのように、富山県最大の北前船の寄港地は「岩瀬港」と呼ばれていました。そこは、現在の富山港の一端にありますが、今も往時を偲ばせる豪壮な廻船問屋の屋敷が通 り沿いに残っています。
「そう言われてみますと、案外、岩瀬港と関わりがあるのかも知れません。当社の創業は明治の初めですが、それ以前にも、細々と酒を造っていたらしいです。当時の廻船問屋は、何でも扱う商社みたいなものでしょうから、これも、一理ありますね」
岩瀬社長の言葉を借り、歴史ロマンをもっと掻き立てるなら、藩政が途絶えた明治時代には廻船業者が激増したため、これをあきらめ、酒造りに特化していったとも考えられます。

皇国晴酒造の創業は、明治20年(1887)の 岩瀬 栄吉 が敷地内に湧く清水を使って酒を醸した時から始まりました。仕込み水は「岩の水」と呼ばれ、今日も別 絶えることなく、アルプスから天然の地下水を運んでいます。
明治から昭和の初期までの酒造りは、親戚や一族による家内工業で500石ほど。生地の地元人の暮らしを潤すだけの製造量 でした。そして、「皇国晴(みくにはれ)」という社名の由来は、明治37年(1904)の日露戦争前後に高揚した“皇国(みくに)”意識に触発されて、岩瀬家の親戚 会議で決定されました。

その後も、大正期から昭和初期へ好調に業績を上げていった証しを、どっしりと座っている皇国晴酒造の蔵屋敷が語ってくれます。

1世紀近い歴史を持つ岩瀬家の屋敷は、生地の通りに分厚い漆喰壁と重厚な大屋根を際立たせています。今では、その漆喰壁を塗る左官職人もほとんどいない時代ですから、手入れには苦労することでしょう。
「屋根瓦を葺き替えとなると、四苦八苦しますよ。普通の屋敷の倍ほども、必要ですから」
それでも岩瀬社長は、先祖から受け継いだこの蔵屋敷を、これからも代々の後継者が大切に守っていくことを家訓としているそうです。

太平洋戦争下の昭和18年(1943)頃、皇国晴酒造は、戦時統制令によって休業を余儀なくされましたが、終戦3年後には操業を再開しました。
昭和40年代に入ると、テレビや新聞などマスコミを使った広告ブームに乗って、灘や伏見の酒がじわじわと全国へ進出し、富山県もその洗礼を受け始めます。
しかし、皇国晴酒造は先手を打つかのように「皇国晴 生一本」を発売し、当時の人気力士を使った販売促進を展開。さらには、アルコール添加の酒が市場を占める中、かつての岩瀬家の純米酒を復活すべく吟醸造りを開始、銘酒「幻の瀧(まぼろしのたき)」を生み出しました。

ちなみに「幻の瀧」は黒部峡谷に実在していて、正式名は「剣大滝」。黒部川の河口から上流45kmにある峻険な十字峡から、さらに剣沢に登ること2時間でたどり着ける、秘境の滝です。
人跡未踏の険しい道程を、大正14年(1925)登山家・冠 松次郎氏が探険し、初めて滝の全貌が明らかになりました。落差300mの三段の滝は、急流と断崖にさえぎられているため、多くの登山家が瀑音を聞きながらも、実物を目にすることができずに引き返したそうです。そんな言い伝えから、いつしか、幻の瀧の名がついたというわけです。
そんなロマンをブランドにし、黒部川の伏流水を使った富山の地酒として、皇国晴酒造はメキメキと頭角を現してきます。
この時代をリードしたのが、若き日の 岩瀬 新二 社長でした。

業界では、バイタリティーある行動派で個性的な経営戦略を展開する人物と評され、幻の瀧シリーズは大ヒット。さらには吟醸造りの追求によって、毎年のように全国新酒鑑評会の金賞も獲得するようになりました。
結果、500石の小さな酒蔵が、五千石にまで規模を拡大し、全国の日本酒ファンに「幻の瀧」の名を知らしめたのでした。
「でもね、それは私だけの成功じゃなくて、我が社を支えてくれた二人の男の勲章でもあるんです」
興味津々のトリビアな話が、岩瀬 社長 の胸に秘められているようです。
それは、蔵主ページでじっくり紹介することにしましょう。