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鹿野酒造株式会社 ~蔵主紹介

数本の斗瓶囲いされた大吟醸酒が、取材スタッフの前の唎き酒グラスに注がれました。鹿野 頼宣社長を始め、農口 杜氏、社長夫人、若い職人頭が、目、鼻、口の感覚を研ぎ澄まして9種類の酒を吟味します。
取材スタッフの熱いまなざしの先で始まったのは、今年の全国新酒鑑評会出品酒の一次選抜です。あの農口杜氏の唎き酒シーンを目の当たりにできるとは、地酒ファンとして願ったり叶ったりの幸運! シュルシュルと酒を啜る音が、静まり返った検査室に響きます。
唎き猪口(蛇の目)とアンバーと呼ばれるグラスを使い分けるのは、年々によって鑑評会審査で使用される器が変わるため。陶器とガラスの口当たりのちがい、口へ入れる時の空気の具合によって酒の味が微妙に変化するのです。
いずれの場合も想定した試行錯誤をしながら、唎き酒を繰り返します。約1時間の唎き酒が終わると、鹿野 社長の真剣なまなざしがようやくほころびました。

「現在、酒造りは13名で行っています。その内、3名の社員蔵人は若い人たちで、農口杜氏に学びたくて、どうしても当社で働かせて欲しいと嘆願した子もいます。そんなメンバーもようやく仕事が解ってきたので、皆で醸した出品酒ですから皆で吟味するようにしています。全員が心を一つにした酒が評価されてこそ、酒屋冥利に尽きるというものです」
今回で7造り目を迎えた若い職人頭に、鹿野社長の柔和な視線が注がれていました。

鹿野 社長は、七代目として昭和16年(1941)に誕生しました。戦時統制化の真っ只中に生まれましたが、物心つく頃には清酒醸造が再開されています。
「正直なところ、酒屋には成りたくなかったですねえ(笑)。冬場の仕事がキツイし、朝は早いし。大学受験の時も化学系の勉強がしたくて親父に内緒で願書を取り寄せたのですが、バレましてね。『馬鹿者! お前は醸造学を学んで、わしの跡を継ぐのだ。ならぬものは、ならん!』と烈火のごとく怒られましたよ」
思えば、頑固な明治の男でしたと父親を振り返る鹿野社長。結果的には東京農業大学へ入学し、卒業と同時に鹿野酒造へ入ったのです。
当時までは残り少ない加賀杜氏が櫂棒を握っていたそうですが、鹿野社長の代には小千谷杜氏、能登杜氏、南部杜氏と受け継がれながら数種類あった銘柄を「常きげん」一本に絞ることで、手造りの旨い酒を追求してきました。

そうこうする中、平成10年(1998)南部流の杜氏が引退することとなり、鹿野社長はずっと親交をつないでいた能登杜氏組合へ人材推薦を打診しました。その時の組合長は農口尚彦 氏で、彼の弟子に当たる人物を紹介してもらったのです。
農口 杜氏の右腕であった優秀な杜氏でしたが、酒造りへの考えが鹿野社長と微妙に異なっていました。鹿野社長はそれを妥協せず、能登杜氏組合からの推薦を丁重に辞します。
これで話は振り出しに戻ったかに見えたのですが、折りしもその直後、農口杜氏自身が前職の酒蔵を定年退職することとなりました。
小松酒造組合や石川県酒造組合連合会で要職を務めている鹿野社長は、農口杜氏が勤めていた前メーカーの蔵元と入魂の関係。そんな縁もあったのでしょう、「年齢に定年はあっても技術に定年はないはず」と農口杜氏の第一線引退を惜しみ、固辞する氏に説得を続け、三顧の礼を持って迎えたのです。

日本全国の地酒ファンが一目もニ目も置く、常きげんの山廃仕込み。そこには、多売のために機械生産するメーカーとは一線を隔する、“飽くなき手造りへのこだわり”が見えます。
だからこそ半仕舞いによる800石を守り続けると言う、鹿野社長。その信条には、どのような考えが秘められているのでしょう。
「例えば、私が東京農業大学へ行っていた頃とちがって、今は酒造りを学ぶ女性も増え、酒造メーカーの現場にも技能士が多くいらっしゃいます。そこでは、昔のような厳しい職人社会や徒弟制度は無くなりつつあり、製造設備も充実して若い人たちにとっては恵まれた環境に変わってきました。でも、私は基本的に自分から学び、掴み取るという姿勢が酒造りには不可欠だと思うのです。ですから新しい装置や設備を導入しても、それを扱う人の心構えが磨かれなければ、いい酒は生まれないと考えます。その意味からも、農口杜氏は自らを厳しく叱咤激励する“職人の鑑”と言える人ですから、精神的にも鍛えられると思います。もちろん、あまり厳しくしすぎてもいけませんが(笑)」
まずは、良き人あっての良き酒と鹿野社長は答えます。そして次に、高品質の原材料へのこだわりを徹底できると言葉を続けます。


「当社では五百万石、美山錦、山田錦を三本柱にした酒造りを行っています。実は社屋裏の水田で試験栽培を繰り返し、農口杜氏ともいろいろと談義する中で、やはり山田錦を糀米に使うことから、香り、味、キレなど最も調和した美酒ができると結論を出しました。そこで来期からの吟醸酒造りには、全量山田錦の糀米とすることを計画しています。最高の糀米造りに、トコトンこだわる方針です」
詳細な情報はまだ企業秘密ですが、特Aクラスの山田錦の糀米で醸されるとなれば純米酒や吟醸クラスがこれまで以上に旨味をアップさせるはず。
ますます常きげんファンが、増えることになりそうです

昨年末頃からカップ地酒などのスポットライトが増え、旨口の純米酒が好評で、日本酒復活!などのキャッチフレーズがマスコミで取り上げられています。
鹿野酒造にもテレビや雑誌の取材陣が次々と訪れているようですが、鹿野 社長はこの最近の日本酒動向をどのように受け止めているのでしょう。
「脚光を浴びるのは良いことですが、それに踊るほど日本酒は復活しないでしょう。と言いますか、私としては、現状が本来の地酒屋としての状況ではないかと思います。当社はマスコミ情報や動向に左右される規模ではありませんし、そればかり気にするなら、地元の伝統産業としての商いができてないと言うことでしょう。目先のブームを追って生産やセールスを拡大すれば、それが停滞した時への対策をいつも講じていなければなりません。そんな労力や能力があるのなら、当社は加賀の酒らしさを追いかけたいのです。じゃあ、その基準をどこに置くかと申しますと、やはり地元の皆さんに喜んで頂けるような旨い酒だと思います。

販売チャネルを増やしてあれこれと雑多な酒を造ってしまうと、いつか、どれが本来の自社の味なのか、どこに地酒屋としての理念があるのか見えなくなってしまいます。ですから、そうならないためにも、ブームや低迷に一喜一憂せず加賀の酒屋としての商いを続けていきたいですね。加賀らしい旨い米の酒を考えている中で、昨年はこんな志向の商品が誕生したのですよ」

そう言って鹿野社長が紹介してくれたのが、瑠璃色に染まる美しいデキャンタ風の瓶。
「KISS of FIRE」と書かれたボトルに入っているのは、2年熟成の山廃純米酒です。これは、イタリアの世界的ファッションブランドが農口 杜氏の醸す珠玉の山廃純米酒に惚れ込み、開発された商品なのです。
加賀の旨い酒、本物の地酒への鹿野 社長の想いは、日本文化を海外に伝えたいというブランド企業とも通じ合って、世界へリリースする逸品が完成しました。昨年秋から、全米の市場にデビューを果たしています。

今後の鹿野酒造は、さらに地酒屋としての道をひたむきに歩み続けるようです。
  現在は県外向けが55%、地元市場が45%、もう少し地元への提供量を伸ばしたいと鹿野社長は言います。
「若い人たちが日本酒を飲まなくなる中、石川県内では、ようやく料理人や酒匠、酒造組合やメーカーが智恵を出し合って、いろいろと日本酒を楽しんでもらう催しや企画を展開しています。そんな場所にいらっしゃる若い方には、華やかな吟醸酒や超特選の高級酒ばかりではなく、毎日飽きずに飲める手頃な旨い酒を飲んでもらいたいですね。前者のような酒は、日本酒の美味しさと出会うきっかけにはなりますが、毎日の酒となると、若い方の食生活や懐具合にふさわしいかどうか疑問です。その一つとして、本醸造酒・普通酒のグレードアップも今後の業界の課題でしょう。また、酒の良さだけをアピールしてもダメですね。酒と料理の合わせ方や、それを楽しめる器や雰囲気なども必要でしょう。

例えば、加賀の温泉街で日本酒を頼むと、何の変哲もない白いお銚子に入って出てきます。その中身は何なのか、分からない。さらに、その酒の銘柄や特長を伝えるなら、『こんな料理が、合いますよ』とひと言添えてお出しする。単純なことですが、これが意外とできていないんですね。これからの時代、感覚・知識が豊富で、しかも酒の選択肢をたくさん持っている若い人に選んでもらいたいなら、信頼と納得してもらえる日本酒のサービス方法が大事でしょう。つまり、きちんと顔が見えるように提供しなければいけません。それは私たちメーカーが、一番勉強しなければいけないのですけどね(笑)」

微力ながら、温泉街の旅館や料理店にそんな提案や助言を持って回ることもあると言う鹿野社長。ここにもまた、鹿野酒造の地元への回帰が表れているようです。
インタビューの締め括りに、筆者が一杯飲ませてもらった常きげんの山廃純米酒。冷やよし、燗よしの幅のある旨味は、穏やかな優しさを感じさせる鹿野社長にも似た味わいでした。