


江戸時代の佇まいをそのまま映す土壁の蔵、伽羅色の木質と三和土がゆかしい帳場。素朴な贅を感じさせる蔵元屋敷の裏には広々とした田んぼが続き、見はるかす先には白山の頂きが春霞をまとっています。
そんな加賀の鄙びた里「八日市」とともに、蔵元の鹿野家は代々暮らしてきました。
「平安時代の加賀市一帯には、京都の公家が領する7つの荘園があったそうです。その由縁でしょうか、この八日市地区の鎮守社である春日神社は、藤原氏にゆかりがあるそうです。昔から、この辺りは『額田庄(ぬかたのしょう)』と呼ばれています」
こぢんまりとしながらも幽玄な雰囲気を漂わせる苔庭を前にして、蔵元七代目の鹿野 頼宣(かの よりのぶ) 社長は解説してくれます。
筆者の調べた記録によると、文治2年(1185)北加賀の地侍・林氏を祖とする板津 成景ら一党が額田庄に侵入し、領地を奪ったとあります。平安王朝による中央政権が揺らぎ始めた頃は、さまざまな地侍・野党たちによって奪い合われたようです。
また、建久6年(1195)5月27日、後鳥羽天皇が側近の刑部卿典侍である藤原 兼子(ふじわらのかねこ)を加賀国額田庄の預所職に任命した文書が残っています。
この預所とは実際に荘園に赴くわけではなく、都に居ながら年貢分を取得する身分で、現地の管理は鎌倉政権下の地頭たちの仕事でした。当時、加賀の地頭には富樫氏がおり、その有力家臣団に額田(ぬかだ)氏、山川(やまごう)氏、額(ぬか)氏などが存在していました。
また、延徳3年(1491)京都の公家・冷泉 為広(れいぜい ためひろ)卿が越後に向かった際にしたためた「越後下向日記」がありますが、その中で八日市は椿と山吹が咲き乱れる里で、日本海の港へ通じていたと紹介されています。

さて、鹿野酒造の創業は文政2年(1819)となっていますが、それまでも在郷の庄屋的な立場として酒造りを行っていたようです。
「酒造りを始める前は、大聖寺藩から緑茶や油にする菜種の栽培も仰せつかっていたようです。酒造家となった初代の名は、清衛門(せいえもん)と申します。酒米はもちろん自分が預かる土地の米を使ったのでしょう。そして仕込み水は当家のすぐ裏手に湧く井戸水で、竹の樋(筒)を使って蔵の中へ引き込んでいました」
鹿野酒造の美酒を醸すその軟水は、この八日市地区に上水道が引かれる昭和40年頃まで、里の人々の生活用水としても使用されていました。
白山の雪解け水が絶え間なく湧き出る井戸は、文明3年(1471)から加賀国で一向衆を広めた蓮如上人の掘ったものと伝わっています。
逸話によると、上人がこの八日市の里を通った時、喉の渇きを癒そうと米をといでいた女に水を頼みました。その頃、村は水に不自由していたので、女は米のとぎ汁を差し出しましたが、上人はその水を捨て、そこを杖で突くと泉が湧き出したそうです。
この伝説から、鹿野家の遠祖がいつから酒を造ったのか推して知るべしでしょう。「上水道が引かれてから井戸はしばらく放置されていたのですが、この土地に代々暮らし、恩恵を与っていた者として、先祖からの深い御縁と感謝を込めて井戸を復活させました」
鹿野 社長は、平成9年(1997)由緒あるその井戸水を30年ぶりに甦らせたのです。そして2年後には井戸場を整備し、清らかな水を湛える自然園「白水の泉」を誕生させました。そこには、この地の希少な生き物で、蓮如上人ゆかりの「ホトケドジョウ」も棲息しているのです。
二代目・重与衛門(じゅうよもん)以後も、鹿野家は八日市の民衆を支える酒屋としてひたむきな営みを続けています。それは、銘酒「常きげん」の由来にも垣間見ることができます。
「江戸時代の中期は飢饉や旱魃の年が多く、また年貢も厳しかったようです。しかし、ある年に米が大豊作になり、重与衛門は土地の農民たちとこぞって祝い、ごきげんな幸せがいつまでも続くようにと祈ったそうです。当社のブランド『常きげん』は、これに由来しています」
そんな農家の人々たちや海辺に暮らす漁師たちが酒造りに従事していたと、鹿野 社長は教えてくれます。
「雪深い冬は作物が獲れませんし、シケが続く冬の日本海には船を出せません。そうして加賀の酒屋で働いた人たちが、いつしか加賀杜氏と呼ばれるようになりました。しかし、その存在も昭和50年半ばには絶えてしまったのです」

明治時代に入ると重与衛門は鹿野の姓を名乗り、これにあやかった「もじみ正宗」を醸造します。さらに大正時代には「ほどよし」「八重菊」と銘柄を増やしています。
その頃、大聖寺界隈には20軒ほどの蔵元があり、それぞれ300石程度の小規模な酒屋でした。
「今も毎年、4月2日と10月2日に加賀市の蔵元や酒販店の方たちが大聖寺・加賀神明社の松尾社に集まって神事を催すのですが、それは当時から続いているものです。しかし、蔵元は3社だけとなりました」
現在の鹿野酒造は約800石の製造量ですが、往時から頑なに「半仕舞いによる、旨い加賀の酒」を守り続けていると鹿野 社長は語ります。その理由を「やはり、地元の人々のための『民の酒』であることが、我が家の信条ですね。それは、蓮如上人から授かった『命の水』のありがたみを忘れないためでもあります」と付け加えました。
昭和14年(1939)戦時統制による酒屋の統合・廃業が始まると、個人醸造家である鹿野酒造は醸造停止を余儀なくされます。そして戦中には、軍の指導によって葡萄酒造りを行い、酒石酸を提供することとなりました。
この酒石酸とは、ワインの中から固めて取り出す水溶性のカリウム・ナトリウム塩などの有機物です。その白い結晶は、軍事用無線のマイクやイヤフォンの素子として使われたのです。
「当家の前まで装甲車がやって来て、酒石酸の荷を積んで行ったのを薄っすらと憶えていますよ。実は、その時に搾った葡萄の皮を使って、ブランデーを仕込んでいたのです。葡萄酒職人が住み込んでいましたから、母親が彼らに頼んで内密に造っていました」
その希少な酒を惜しげもなく地元の人たちに分け与えたのが、鹿野 社長の父である六代目の重(しげる)でした。彼の地元の人たちを愛する姿、いったん決めたらテコでも動かない頑固一徹さは八日市随一だったそうで、「一本残らずブランデーを放出した父に、母は呆れ果てていました」と鹿野 社長は懐かしみます。
そして昭和22年(1947)、鹿野酒造はようやく清酒造りを再開します。
重が活躍した昭和30年代から40年代は、アル添酒造りがほとんどでした。しかし彼は吟醸酒造りも手がけ、常きげんは金沢国税局主催の品評会で優等賞を幾度も獲得しました。また山廃の純米酒も復活させ、来たるべき地酒ブームに備えていたようです。
この頃テレビコマーシャルの効果によって、片山津温泉が人気沸騰。これが火付け役となって加賀市周辺の温泉街は、団体旅行・社員旅行の一大ブームを迎えます。
目抜き通りには下駄の音が響きわたり、大学を卒業して家業へ入ったばかりの鹿野 社長は 休日返上で配達に励んだそうです。
「浴衣の行列を避けながら、1日中旅館や居酒屋を軽トラックで回りました。もちろん灘や伏見の大手メーカーも温泉街に進出していましたが、当社の酒は、昔ながらの旨口酒として根強い人気を保ちました」
そんな好景気の中でも、鹿野酒造は現在と同じ製造量を守っていました。そこにも、地の酒屋であり続けることにこだわる鹿野家の血脈があったのでしょう。