

残雪を解かす白山の嶺が、春の柔らかな陽を浴びて燦々と輝いています。
広々とした平野は、ようやく田植えの季節。緑の水田に、数百年を経て湧き出す清冽な雪解け水が注ぎ込んでいました。
ここは石川県加賀市。北陸の大河である手取川流域の扇状地で、肥沃な土地と風光明媚な気候に恵まれる穀倉地帯です。最高品質のコシヒカリのほか、加賀蓮根、加賀太キュウリ、ヘタ紫茄子、金時草、加賀つるまめ、源助大根、金沢一本太ネギなど、郷土料理に欠かせない「加賀野菜」も作られています。
むろん地酒ツウの読者は、酒米「五百万石」の名産地であることもご存知でしょう。
そんな牧歌的な風景の中をたどって行くと、今回の訪問蔵元である鹿野酒造株式会社があります。
銘酒「常きげん」を仕込む水は、加賀の国を代表する伝説の名水「白水の泉」。530年前に掘られた天然の井戸水が、鄙びた蔵元の里に滾々と溢れ出していました。
加賀地方の基盤は、戦国時代の一向宗徒と江戸時代の前田藩の融合によって作られたようです。特に農民たちが崇拝した「南無阿弥陀仏」の心に育まれたと言っても、過言ではないでしょう。
それ以前、鎌倉時代の加賀国では御家人の林氏、富樫氏の二つの名家がしのぎを削っていました。しかし、承久3年(1221)後鳥羽上皇が幕府に叛旗を翻した承久の乱で林氏が失墜すると、富樫氏が勢力を拡大します。
富樫氏は、源 義経が兄の頼朝軍に追われて奥州へ落ち延びる際、加賀の安宅の関(現在の石川県小松市)で見逃してやった「勧進帳」でお馴染みの名門武家です。ちなみに、この義経主従の中にいた尼御前(あまごぜ)にちなんだ岬が、加賀市美岬町にあります。
尼御前は安宅の関での取り調べや旅路の足手まといになることを怖れ、義経の無事を祈願しつつ日本海へ身を投げたと伝わっています。
元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡すると、富樫氏の頭領・富樫 高家は即座に足利尊氏の元へ走り、その後は数代にわたり室町幕府の開設を助け、その恩賞によって応永21年(1414)加賀国守護職を与えられました。以後、50年余りの間、富樫氏が領有権を保ったものの、応仁元年(1467)京都で応仁の乱が勃発すると地領を奪われた他国の武将、それに追従する野党や野武士が加賀に乱入します。
農民たちはある年は作物を奪われ、ある年は年貢を課せられますが、戦乱に荒れ果てる土地は作物を産まず、飢餓と貧困の生活を強いられたのです。
そんな最悪の時代、加賀の救世主となったのが浄土真宗本願寺第八世の蓮如でした。
当時の蓮如は京都比叡山の弾圧を逃れながら全国行脚し、布教活動を展開していました。文明3年(1471)には越前と加賀の国境にある吉崎の地へ赴き、吉崎御坊を建立して荒廃した加賀の民の心を導きます。
蓮如来訪の噂を聞いて、陸続と吉崎へやって来る数万人の民衆。その崇敬の念に目を付けた守護職・富樫
政親は蓮如の布教を認めることで力を借り、宗徒を蜂起させ、土民一揆によって他の武士勢力を一掃し始めました。
4年後、蓮如は加賀を去りますが、死をも恐れない信仰心によって強大化する一向勢力は、自分たちの土地と生活を脅かす守護代、地頭や野党をことごとく粉砕。この頃から富樫 政親にとっても一向一揆は脅威となり、袂を分かっていきます。
そして、ついに長享2年(1488)富樫氏の居城である高尾城(現在の金沢市高尾町)を、加賀・越前・能登・越中から集結した20万人の一向一揆が攻撃。冨樫
政親以下30名を超える武将が自害し、またたく間に高尾城は落とされました。
この日を境に越前から能登に及ぶ広大な宗教国家が誕生し、それは織田 信長の「天下布武」に屈する日まで約100年間も存続したのです。
江戸時代に入ると、加賀地方は前田百万石の支藩となります。寛永16年(1639)前田家三代藩主・利常が、三男の利治に七万石を分与。幕府より大聖寺(だいしょうじ)藩と名付けられ、その後、禄高は十万石となりました。城下町ながら、門前町、宿場町、港町などを擁していた大聖寺には、往時を偲ばせる風景がそこかしこに残っています。大聖寺藩では徳川幕府による一国一城令に従い、城ではなく陣屋を構えました。この陣屋はかつての城山「錦城」の跡に建てられ、山麓には数寄屋風の別邸「長流亭」をしつらえています。
終宵 秋風聞や うらの山
加賀は、北前船文化を発展させた港町でもありました。文政年間(1818~1830)に廻船問屋を始めて加賀藩御用達の豪商となった銭屋 五兵衛はその筆頭ですが、日本海に面した橋立町には当時活躍した北前船主たちの館や遺構が存在しています。
「北前船主屋敷 蔵六園」は明治中期まで栄えた酒谷家の屋敷です。敷地は約一千坪、建物は総漆塗りで、風格ある庭園は加賀大聖寺藩の前田家に「蔵六園」と命名されました。
時には蔵主がここを訪れ、当主と茶の湯や碁を楽しんだそうです。館の土蔵には船箪笥、遠眼鏡、引き札、古銭から古九谷、吉田屋窯、茶道具、山中漆器といった絢爛たるコレクションが保管陳列されていて、観光客の溜め息を誘っています。
ところで加賀と聞けば、誰もが「温泉!」と答えるはず。加賀市近辺には、山代温泉、山中温泉、片山津温泉、粟津温泉など北陸屈指の名湯が連なっています。
近年、露天風呂やこだわりの温泉ブームによって各温泉地とも景気を取り戻しつつあるようで、街角の足湯や元湯ではホッと和む旅人の姿がたくさん見受けられます。
特に、山代温泉は文人墨客たちがこよなく愛した湯治場で、陶芸界の巨匠・北大路 魯山人も庵を造りました。その旧家は「魯山人いろは草庵」として一般公開されていて、人気を博しています。
そして、これらの温泉とともにじっくりと楽しみたいのが、加賀の逸品である九谷焼です。
九谷焼は大聖寺藩・初代蔵主の前田 利治が直々に推進した産業でした。領地内の九谷村で金鉱山を開発中、陶石が発見されたことから、利治は錬金術師を務めていた後藤
才次郎なる人物を肥前国へ出向させ、有田焼の技術を学ばせました。
帰藩した才次郎は九谷の地で窯を立ち上げると、田村 権左右衛門を指導して、明暦元年(1655)頃から磁器の生産を始めたのです。
以後、この陶芸産業は代々の蔵主に引き継がれ、加賀藩の文化として幕末まで継続します。しかし、明治期には藩政の崩壊と近代技術の波によって衰退し、明治37年(1904)の日露戦争による陶業の一時停滞を契機に、個々の陶芸家の時代へと移り変わっていきました。このため、現存する藩政期の古九谷や赤色を使わない手法で描かれた青手古九谷などは、収集家の垂涎の的となっています。
加賀市にある「石川県九谷焼美術館」では、そんな逸品のコレクションをたっぷりと鑑賞することができるのです。
自然、風土、文化……絢爛たる金沢とはひと味ちがった、素朴な魅力を偲ばせる加賀市。そのゆかしい里で、昔から変わることなく加賀の民衆に愛されてきた銘酒が「常きげん」なのです。
蓮如上人が発見した「白水の泉」で仕込まれる伝統の山廃仕込み。その旨味と深みには、加賀を愛する民の心も醸されているようです。
今宵は、古九谷の酒器で常きげんを一献……そんな加賀の夢を想いながら、鹿野酒造の物語を始めることとしましょう。