


初秋の風に揺らめく「加賀鶴」の暖簾と清楚な白木の出格子。やちや酒造株式会社の社屋は“凛として佇む”という表現がふさわしく、生粋の“金沢の蔵元”を実感させます。
そして一歩玄関を入れば、加賀鶴の美酒を紹介する新しいギャラリーと数百年の歳月を経た土間・上がり框が調和する、蔵元の世界が広がります。
「当社の社屋は、約200年前の建造物です。登録有形文化財に指定されていますが、実は金沢では過去たびたび火災が発生していて、文化12年(1815)の“大衆免(だいしゅうめん)大火”の際、当家も一切合財を焼失しています。ここから1.5キロメートルほどの大衆免石屋小路という所から出火したのですが、そこは町名の通り、地子などの税を免除された職人町だったそうです。おそらくは鍛冶屋などから出火したのでしょうが、火は街一帯を舐め尽しました。ですから、それ以前の仔細な文献や記録は残念ながら存在しません。しかし、当家が前田利家 公 以来の御用達酒屋であったという史実は周知のことで、今も十八代当主・前田 利祐(としひろ) 様より、御愛顧を賜っています」
そう言って取材スタッフを出迎えてくれたのが、やちや酒造十一代目である神谷 昌利(かみや まさとし)代表取締役社長です。スマートで洗練された上品な印象は、いかにも古都・金沢の伝統をになう蔵元らしさを感じさせます。
そして、神谷社長の案内でインタビューの場へと進んだ筆者は、耽美な空間に驚かされたのです。朱色の壁と藍色の毛氈がしつらえられた座敷は、まぎれもなく、賓客を持て成す“金沢伝統の格式”。その光景は、今しがた話された前田家御用達の風格を髣髴とさせます。
やちや酒造の始祖は、天正11年(1583)前田利家の移封とともに金沢へ従って来た、神谷内屋仁右衛門(かみやちやじんうえもん)と伝わっています。
金沢の中心地には「尾張町」が現在も残っていますが、これは仁右衛門だけでなく、幾多の尾張人たちが移り住んだことの証しでしょう。
「神谷内屋の名は珍しく、現在の前田家の御当主様は『神谷さんの遠祖は、尾張の地侍のようですね』とおっしゃいます。ただ、前田利家公から思し召しを頂いた頃には、すでに酒造りを生業としていたのでしょう。ですから、金沢に移り住む直前までは、尾張の地主か庄屋という立場ではないでしょうか」
神谷社長から仁右衛門の推察を聴きつつ、筆者にはおぼろげながら彼の人物像を描くことができました。
大名の国替えに際し、一族ともども恭順転住する人物となれば、それは領主と恩恵・忠孝によって固く結ばれている存在。農民や商人に関しては、いわゆる“肝煎り”格にほかなりません。
おそらく仁右衛門は名字・帯刀を許された“侍”同等の身分であり、相応の郎党を引き連れて加賀国へ入り、酒造りだけでなく、前田家の都造りにも貢献したのではないでしょうか。
さて、その後140年あまりの歳月を経て、銘酒・加賀鶴が呱々の声を上げます。
江戸幕府下の寛永5年(1628)、時の蔵元・神谷内屋孫兵衛(まごべえ)が加賀蔵主三代・前田 利常(としつね)より、屋号「谷内屋(やちや)」とともに銘柄を拝受したのでした。
加賀鶴の銘は加賀の国の名と慶祝の象徴である鶴を併せ持ち、れっきとした御用達蔵元の品質を守りながら伝統・歴史を綴り始めるのです。
この時をやちや酒造は創業と定め、当主・孫兵衛(まごべえ)を初代蔵元としています。
「当時は100軒以上の蔵元が、城下にあったようです。前田利常公は、外様であるがゆえ武門の奨励は控え、学問・芸術の啓蒙に心血を注いだ方で、この時代に金沢の伝統文化が花開きました。
例えば、茶道が流行すれば御茶甚(おちゃじん)が設けられ、ゆえに酒が嗜まれる。そんな文化発展の流れの中で、当家の加賀鶴は愛飲されてきたのだと思います」
今となっては、その頃の事実を知る由も無いのですがと、神谷 社長は座敷に面した純日本風の庭にまなざしを向けます。その視線の先には、1本の大楠がそびえていました。幹は樹齢300年以上を経ており、金沢市内で三指に入る古い楠です。
先祖が植えたものか自生したものか、定かではありませんが、いわば、やちや酒造の歴史を語る年輪でもあるわけです。
江戸期の加賀藩は徳川家の信任厚く、治世文化が安定し、発展を遂げています。むろん、藩の財政に関わる産業の庇護・擁護を奨め、酒造りもその一翼をになっていたにちがいありません。
当時は「加賀杜氏」と呼ばれる地元蔵人集団が酒造りを行っていました。その味がいかなるものだったのか、加賀杜氏の消滅した今では計り知れませんが、今日まで続く“加賀の菊酒”の賛辞からすれば、珠玉の美酒であったことは想像に難くありません。
歴代のやちや酒造にも、そんな杜氏・蔵人が存在したことでしょう。
また、寛文2年(1671)には河村瑞賢による西廻り航路が誕生し、文政年間(1818~1830)には、銭屋五兵衛の活躍によって金沢の港(大野湊)は寄港地として栄えました。つまりは、加賀の米、干し魚、着物、工芸品などが上方や江戸にも流通することとなったのです。ひょっとして、それに混載して、加賀鶴の酒も海を渡ったのかも知れません。
江戸末期のやちや酒造の繁盛を示すかのように、座敷の欄間には、十三代蔵主・前田齊泰(なりやす)から拝受した揮毫がさりげなく掛けられ、取材スタッフは思わず驚きの声を上げたのです。
明治維新から大正期までを通じ、やちや酒造の蔵元は肥料や鬢付け油なども扱う大店となり、神谷の姓を名乗っています。そして、この頃の発展を支えた中興の人物が、八代目・神谷文次郎(ぶんじろう)でした。
神谷 現社長の曽祖父に当たる文次郎は質素倹約を旨とした人物で、それを伝える古い金庫が現在も残されているのです。
「曽祖父は10年間にわたって日々一銭を貯め、高価な金庫を手に入れたのです。金庫の中板には、こんな記録が残されていました」

そこには、明治26年(1893)から同35年(1902)までコツコツと貯金した経緯と文次郎の人となりが記されています。
聴くところによると、当時のやちや酒造の石高は300石程度。いずこの城下の蔵元とも似た規模で、冷蔵設備もないために腐造も起こり、資金面で体力を持つことが存続の条件でした。
その信条は九代目・文次郎にも受け継がれ昭和の時代を迎えますが、戦時統制下では、やむなく操業停止を強いられました。
戦後の復興とともに酒造免許を復活させたやちや酒造は、まず復活の手立てとして、桶売りの酒造りに着手します。そして、昭和41年(1966)やちや酒造株式会社が設立。清酒ブーム期の後半には自社ブランドのシェアーも徐々に引き上げ、関東圏への進出を展開し始めました。
十代目当主の神谷 ますみ現・会長は、東京営業所を開設し、金沢酒造組合の副理事長・金沢清酒宣伝販売協同組合理事を歴任するなど、地元業界へも大いに貢献します。
ちなみに神谷会長は、石川県21世紀文化懇談委員、財団法人いしかわ女性基金理事、財団法人石川近代文学館評議員、金沢みなとロータリークラブ理事、石川県環境審議会委員、北陸経済連合会会員(紅一点)、金沢法人会女性部会長(初代)と数え切れないほどの要職を務め、現在は経団連の評議員としても活躍中。
息子の神谷社長いわく「金沢屈指の女傑」なのだそうです。

そして、平成4年(1992)には銘酒・加賀鶴が全国新酒鑑評会で金賞を受賞し、約620名の祝賀会を開催。その後も金賞と入賞を獲得し、金沢国税局管内では11回の受賞を重ねているのです。
「次なる時代は、金沢の地酒らしさをベースにした、新しい魅力と個性をそなえた美酒がポイントでしょうね」
そう語る神谷社長の笑顔には、やはり名門の蔵元らしい、穏やかな雰囲気がにじみます。
次なる蔵元紹介では、そんな神谷 社長の魅力に迫ってみることにしましょう。