

北の誉酒造株式会社は、2007年に酒類事業、酵素医薬品事業など、発酵技術を核にした事業を展開する「オエノンホールディングス株式会社」のグループ企業となりました。
明治34年(1901)の創業以来1世紀を超える美酒が、時代のニーズへ応えるべく、新たな進化を始めたのです。
北の誉酒造とオエノンホールディングス(母体は、合同酒精株式会社)の信頼関係は厚く、大正13年(1924)、道内の清酒蔵元と焼酎蔵元が合併し合同酒精となった際、北の誉酒造の蔵元・野口家が、多大なる支援を尽くしています。
つまり野口家は、北海道の酒造りを牽引してきた名門と言っても、過言ではないわけですが、その創業者・野口 吉次郎(のぐち きちじろう)の成功には、どん底の人生から這い上がり、艱難辛苦を耐え抜いた一人の日本人の生きざまが刻まれています。
野口 吉次郎は、安政3年(1856)加賀国河北郡花園町二日市(現在の金沢市二日市町)の農家・西川 善兵衛の四男として誕生しました。六男三女を抱える大所帯とあって西川家の家計はままならず、15歳になった明治4年(1871)、吉次郎は「こんなあてどない暮らしのままでは、ロクな者になれない」と一念発起し、石川郡大野港の醤油屋・直江 源兵衛(なおえ げんべい)に奉公します。
26歳まで醤油造りに専念した吉次郎は明治14年(1881)に金沢市内で醤油屋を開業、兄弟たちも店を手伝うこととなります。そして、養子に出されていた兄の紹介で、遠縁に当たる松田 のいを娶りました。 また、新たな縁から、身寄りを失っていた武家の老妻・野口 つると養子縁組し、五百円(現在の金額で約七千万円)の援助を受けました。つまりは、この時に野口姓となったのです。
しかし、順風満帆だった吉次郎の先行きに暗雲が垂れこめます。明治14年(1881)、政府は“松方財政政策”と呼ばれる抜本的な貨幣価値の切り下げを行いました。このため全国的に諸物価が急落し、吉次郎の醤油店も大打撃を受けます。売れば売るほど製造原価は高くつき、借金は増える一方でした。ついには蔵、家、商品を人手に渡しますが、それでも莫大な債務が残ったのです。
息子の吉太郎も5歳になり、親子3人路頭に迷うさなか、家族から提言されたのが、開拓によって活況する北海道への渡航でした。
明治19年(1886)7月、吉次郎親子を乗せた北前船は小樽港に到着。その手には、たった五円だけが握られていました。縁もゆかりもない未知の土地に不安と焦燥を抱く、30歳の吉次郎・のい夫婦。しかも、当時の小樽には吉次郎と同じ境遇の男たちが溢れ、まともな職など見つかりません。古着の行商をやり、さらに石炭積みの沖仲師(おきなかし)をやってはみたものの、稼ぎはたったの二十銭(現在の金額で、二千円程度)。海が荒れれば、その日を棒に振るだけでした。
住居は、筵一枚の戸に板敷き六畳間のあばら家。吹雪の夜は布団も凍りつき、寒がる吉太郎の夜鳴きが耐えませんでした。そのせいでしょうか、5年後に吉太郎は気管支を患い幼逝します。のいは、次男・喜一郎を身ごもっていました。
爪先に火を点すような暮らしの中、厳寒の町を裸足で徘徊する吉次郎……この時ほど絶望感に苛まれたことはなかったでしょう。しかし、天は懸命に生きようとする吉次郎を見放しませんでした。
1年後のある日、石炭場の同僚から呉服商・石橋 彦三郎(いしばしひこさぶろう)氏が醤油造りを始めるため杜氏を探していると聞き、吉次郎は平身低頭して訪ねます。薄汚れた着物に縄帯をしたみすぼらしい吉次郎を、丸ヨ石橋商店の者はけんもほろろに扱いますが、主人の彦三郎氏は吉次郎の申し分を聞き「では、お前なりの醤油造りの算段を立ててみよ」と命じます。まさに、千載一遇のチャンスでした。
吉次郎の提出した収支計画は他の杜氏候補者よりも利益が少なく、彦三郎氏はその理由を訊ねます。それは金沢での苦い体験から、吉次郎が厳しく弾いた数字でした。この時の堅実な考え方が彦三郎氏の目にかない、吉次郎は丸ヨ石橋商店に雇われます。
ところが、才覚に長けた近江商人の彦三郎氏は、「醤油ができあがるまでの3年間は無給だ。それでよければ、家族三人の寝床と食い扶持は保障してやろう」と厳しい条件を付け、その後も無理難題を課したのです。
辛抱に辛抱を重ね3年の月日が流れた頃、吉次郎の醤油は上々の人気となっていました。吉次郎は大きな八升樽でなく、使い勝手の良い一升・二升の樽で届け売るアイデアを思いついたのです。これが評判になると、主人の彦三郎氏は予想だにしない言葉を口にします。 「3年間、よくぞ耐え忍んで頑張ったな。私はお前がどこまでの人物か、いつ根を上げてしまうかと、キツイ仕打ちばかりを続けたのだよ。吉次郎、お前は大した男だ。本当にありがとうよ」と陳謝し、今後は醤油業について一切を吉次郎に任せ、百円までの資金を自由に使えるよう取り計らったのです。小樽では、新築一戸の建つ金額でした。
明治23年(1890)9月、故郷を離れて4年目に“丸ヨ野口商店”が誕生しました。そして翌年、金沢へ晴れて帰省する吉次郎に「実家の借金を、すべて返してこい。独り者の義母も連れて来てはどうか」と、彦三郎氏は百五十円の大金を渡します。
そのはからいと恩情に男泣きする吉次郎は、これ以後、辛抱の大切さと感謝の心を忘れず、“報恩と慈愛”の人生を貫くのです。
明治30年代に入ると、吉次郎は丸ヨ醤油を北海道一の品質に育て上げていきます。また、石川県から呼んだ親族を加えて、札幌や旭川へも進出。“野口吉次郎商店”として一本立ちし、酒造業進出など多角化を図ります。
この頃、旭川の陸軍第七師団創設によって、小樽は急速に近代化。人口は年々増加し、必然的に酒の需要が増えます。市民は内地から運ばれる酒を好みましたが値段が高く、海の荒れる冬場は品薄になりました。このため10軒ほどの酒蔵が誕生、吉次郎たちも地酒醸造に着手します。
3年間の試験醸造を繰り返し、明治34年(1901)資本金1万円を元手に、小樽市山田町で銘酒“北の誉”を醸造します。これが“北の誉酒造”の誕生でした。
乾坤一擲の思いで北の大地へ渡り、ドン底の暮らしから15年の歳月が流れていました。ようやく成功者となった46歳の吉次郎でしたが、常に口にするのは「石橋のご主人様の御蔭です」の言葉でした。
銘柄は、他に“親玉”“狸生(しょうじょう)”もあり、旨い酒と大評判。一気に千石酒屋へと成長します。
そして、吉次郎の引退後も業績は伸び続け、大正初期の製造量が3000石に迫り、社業を拡大していきます。
地元小樽のシンボルで、後に昭和天皇・皇后両陛下もご宿泊になるほど贅を尽くした“北海ホテル”経営にも、参画しました。さらには、新しい商店経営の魁として社員の持ち株制度を開始。その後は樺太での会社設立、北海屋(清涼飲料水)の経営など、着々と手がけます。大正9年(1920)には、世界恐慌が日本経済に大きな影響を及ぼしました。その4年後、野口吉次郎商店は札幌国税局の要請を受け、斜陽していた神谷酒造や数軒の蔵元の建て直しに心血を注ぎます。すなわち、これが先述の合同酒精としての合併支援でした。ちなみに、製造量は4200石に達していました。
昭和5年(1930)に株式会社 野口吉次郎商店が設立すると、それを見届けるかのように、吉次郎は3年後に他界。恩師・石橋 彦三郎 翁をはじめ、一族・社員に別れを惜しまれながら78歳の生涯を終えます。
そして、吉次郎の意思を固く誓い合い、戦時統制時代を「小樽合同酒造株式会社」として乗り切ると、昭和27年(1952)晴れて社名を“北の誉株式会社”と改め、神武景気、岩戸景気による需要の急増を迎えました。
札幌北の誉株式会社、北の誉香蘭株式会社、旭川北の誉株式会社が続々と誕生し、道内各地へ販売網を広げ、大手メーカーに迫るほどの成長を遂げます。
昭和40年代には、高度経済成長下の流通発達にともない、「北海道のうまい酒」の呼び声が東北各地に伝播。さらに地酒ブーム期が到来すると、関東一円だけでなく、全国に北の誉ファンを誕生させたのです。
この百年の大慶に、おそらく創業者・野口 吉次郎は、今も、彼らしい感謝と報恩の言葉を繰り返しているのではないでしょうか。
あたかも時代小説のような、厳しくもほのぼのと心潤う物語……日本人の美しい心が生み出した真実のドラマは、“北の誉”のひとしずくの中で、これからも変わることなく生き続けるでしょう。