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北の誉酒造株式会社~プロローグ

小樽のノスタルジーと哀愁を秘める美酒。希有なるしずくはまさに、“北の誉”なり。

夜の小樽運河

凍てついた雪道を照らす、ガス燈の明かり。かがよう運河の水面にはノスタルジックなレンガ造りの倉庫が映り、港町・小樽ならではの歴史とロマンを感じさせます。
北海道西岸の中央に位置するここ小樽は、北緯43度、東経140度にあります。現在の人口は147,000人。海道でも指折りの観光スポットとして、熟年から若いカップルまで幅広い人気を集めています。

早朝の小樽港

小高い“天狗山”の丘陵と石狩湾に挟まれた町並みには、舟見坂、外人坂、観音坂、見晴坂など至るところに坂道が多く、ビルの隙間からは石狩湾を望むこともできます。
冬の小樽港は降りしきる雪に閉ざされていますが、涼しく快適な夏はヨットやクルーザーに遊ぶレジャー客の歓声で賑わいます。

アイヌ民族

小樽市の歴史は浅く、慶応元年(1865)江戸幕府が“オタルナイ村”として認めたことに始まります。時はまさに幕末、欧米列強の圧力から開国へ傾く幕府は、ロシアとの国交拠点にしようと考えていました。
それまでの北海道は“蝦夷(えぞ)”と呼ばれるアイヌ民族の土地であり、南北海道の一部に本土から和人たちが移住し、その知行は松前藩に委ねられていました。この松前氏は、遠祖を室町時代の若狭(現在の京都府北部)の守護・武田 信賢(たけだ のぶかた)の子 武田 信広(たけだ のぶひろ)に辿ると伝わっています。

武田 信広は康正2年(1456)に、松前地方の土豪・蠣崎 季繁(きざき すえしげ)の客となっていた折り、アイヌ民族が大蜂起する事件と遭遇します。
アイヌたちの間では、度重なる和人の横暴に不満が高まっていました。和人の鍛冶屋がアイヌ人を刺殺したのを発端に、ついに大族長・コシャマインは軍勢を率い、12の和人の館を襲撃したのです。

武田 信賢、松前家 家紋

武田 信広は客分の恩義として、若狭から引き連れていた少数の手勢(鉄砲隊)で、コシャマインを射殺します。紛争はすみやかに収まり、和人の勝利に終わりました。
一躍英雄となった信広は、「是が非にも」と蠣崎氏から定住を懇願され、娘を娶って蠣崎姓を名乗りました。これが後々の松前氏へと発展し、明治維新まで十八代を継ぐ大名となるのです。

明治20年頃の小樽港

さて、明治政府は新天地・北海道の開拓のため、10年にわたり当時の金額にして1000万円という莫大な国費を投入しています。日本の年間国家予算が4000万円ほどの時代ですから、その投資には気宇壮大な国策が組み込まれていたのでしょう。道路、鉄道、郵便、通信網、教育機関などが矢継ぎ早に整備される中、本土からは堰を切ったように移民がやって来ました。
当時はまだ蒸気船も珍しく、小樽港の沖合いには西洋式の帆船や北前船が停泊しました。

最盛期の小樽運河

そして、明治13年(1880)には小樽と札幌をつなぐ鉄道が開通、小樽港には道内の産物や原料が山積みされ、内地に向けた輸送船が頻繁に出航したのです。
懐かしのロマン漂う“小樽運河”も、この頃に最盛期を迎えました。水際をポンポン船や艀がひっきりなしに行き交い、荷役人足たちの掛け声が響いていたそうです。

実は、今回の訪問蔵“北の誉酒造株式会社”の初代・野口 吉次郎(のぐち きちじろう)もこの頃本土から小樽に渡り、苦境を乗り越え、大成した人物でした。

さらに、明治37年(1904)の日露戦争で勝利した日本は樺太(現在のサハリン)を領地とし、小樽は物流の中継地として活況します。港と運河沿いには、日を追うごとに倉庫群が広がっていきました。

こうして急速に経済発展していく小樽に出遅れてはならじと、国家機関や民間企業がこぞって進出を始め、明治39年(1906)には、日本銀行の小樽出張所が支店に昇格しています。
今でも市街には、旧・日本郵船(小樽市博物館)、三井銀行、三菱銀行、日本石油、浅田飴本舗、北一ガラス、オルゴール堂など、当時を偲ばせるレトロな建造物がそこかしこに残され、観光客の目を楽しませています。

旧・日本郵船(小樽市博物館)、北一ガラス、オルゴール堂
オタモイ岬

もうひとつの小樽の代名詞といえば、鰊(にしん)でしょう。
現在は漁獲量の激減している鰊漁ですが、明治20年から40年頃(1887~1907)にかけては内地への供給量も膨大で、小樽の一大産業へと発展しました。
石狩湾に臨むオタモイ岬や祝津(しゅくつ)沖には、晩冬になると、海を銀色に染める鰊の大群が押し寄せました。地元では、これを群来(くき)と呼んでいました。
浜辺にはヤン衆と呼ばれる出稼ぎ漁師の番屋が建ち並び、群来を待ちわびて、大漁網を曳く毎日……凍え疲れた男たちには、焚き火と熱い酒が何よりの楽しみでした。
おそらくその酒は、小樽の町とともに歩んできた北の誉酒造の銘酒だったにちがいありません。

ゴメが鳴くから鰊が来ると、赤い筒母のヤン衆が騒ぐ

石狩挽歌の碑

祝津の三大網元だった青山家の旧・別邸には、ヤン衆の悲哀を歌って一世風靡した“石狩挽歌(いしかりばんか)”の詩が刻まれています。
ここは、いわゆる“鰊御殿(にしんごてん)”の最期の豪邸です。大正6年(1917)の建築ですが、この時代以後、鰊の漁獲高が極端に減少し、網元たちは凋落の一途を辿り始めるのです。
しかしながら、邸宅のみごとな唐破風、微妙なゆがみを残す手造りのガラス窓、絢爛豪華な襖や座敷のしつらえは、当時の網元の栄華を偲ばせます。

市内の市場 焼き鰊、ウニいくら丼

小樽の町を巡り歩いていると、香ばしい匂いについつい腹が鳴ります。
匂いの素はいずこ?と見回してみれば、料理店の軒先に、炭火で焼かれる鰊やツブ貝、ホタテ貝を発見!新鮮なトレトレの北海の幸に、さっそくグルメたちが群がっていました。
通称・寿司屋通りは、全国にも類を見ない寿司屋がひしめくストリート。暖簾をくぐれば、絶品の寿司だけでなく、地元特産の“うに丼”、“いくら丼”などもバラエティーいっぱいに味わえます。
また、市内には市場も多く、巨大なタラバガニや毛ガニ、水ダコ、ホッケなどの干物がドッサリと揃っています。これらの極上の食材を口にすれば、やはり銘酒・北の誉のキリリと澄んだ大吟醸が欲しくなります。

北の誉酒造株式会社・酒泉館

小樽の食材を、小樽の名酒で食しつつ、小樽のムーディーな夜に耽る……走馬灯のように浮かんでは消えるかつての運河の姿、ヤン衆が騒ぐ鰊漁の光景……幾たりの小樽人たちがこの美酒を味わい、北の港町を育んできたのでしょう。

厳しい冬には体と心を温め、短い夏には涼やかに酔いしれる銘酒・北の誉。開拓時代のロマンと哀愁をしみじみと想いつつ、小樽の銘醸物語を始めるとしましょう。