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松本酒造株式会社 ~プロローグ

小高い伏見桃山陵から吹き降ろす風は、いつしか木枯らしに変わりました。
冷え込んだ朝。酒蔵の天窓からは湯気が立ち昇り、舞い始めた風花が蔵の大屋根を音も無く染めています。町並みを縫うように流れる「宇治川派流」は澄んださざなみを寄せ、冬の伏見の風情をそこはかとなく伝えてきます。
現代的な住宅が増えたとは言え、ふと目にする路地や細長い町屋が、この町の担ってきた伝統と歴史を偲ばせるのです。
伏見は豊臣 秀吉によって旧名の「伏水」から改称されましたが、実は平安京の頃、山城盆地一帯は湧き水の豊富な地であることが発見されています。京都から伏見の地下は、約230億トンの膨大な地下水を蓄える水瓶になっているのです。
やんごとなき時代には、貴族たちの屋敷の池に清水が滾々と湧き、酒の醸造も地場産業として盛んでした。
その600年後の文禄3年(1594)絢爛たる伏見桃山城が完成すると、伏見は城下町として開帳されました。今もそこかしこに、「毛利長戸東町」や「羽柴長吉西町」など、往時の武家屋敷跡を残した地名が散在しています。そして、ことのほか伏見が気に入った秀吉の施策によって、この町は京と摂津(今の大阪)を結ぶ淀川水運の基点としても栄えたわけです。爾来、いったい幾たりの傑物たちが、この光景の中を闊歩、疾駆したことでしょう。



しかし、現代人の私たちが身近に想うのは、やはり幕末期の伏見ではないでしょうか。そこで4度目の訪問となった今回は、維新の群像を追いつつ、伏見のスポットをめぐってみたい……そんな想いを胸に宇治川派流沿いの小道を散策する取材スタッフは、ふと気付くと、寺田屋の船着場跡(かつての浜辺)へ辿り着いていました。やはり、伏見を語る上で欠かせないこのスポットが、我々を呼び寄せたのでしょう。
石積みのきざはしを上れば、変貌した通りの中で、寺田屋は150年前の姿を変えることなく佇んでいました。

昨年評判となった大河ドラマ「新撰組!」でもご存知の通り、かつて寺田屋は長州・薩摩・土佐の脱藩者や勤皇の志士たちがたむろする隠れ家でした。
いわば“近代日本幕開けの舞台”と言っても過言ではなく、その黒子役に徹したのが、女将のお登勢(おとせ)でした。
当時のお登勢は、年齢的にも女将の度量としても伏見では名うての女傑で、佐幕派も尊攘派も一目を置く存在でした。また、情報網も広く持ち、坂本 龍馬(さかもと りょうま)や桂 小五郎(かつら こごろう)たちが全幅の信頼を寄せていました。
ちなみに、慶応3年(1867)11月15日、京都河原町の近江屋で坂本 龍馬は暗殺されましたが、その前日、お登勢が「ここは、危険です」と伏見から情報を持って訪問したと記録されています。残念ながら、龍馬はその忠告に耳を傾けず、非業の死を遂げたわけです。




また、文久2年(1862)4月23日、薩摩藩士・有馬 新七(ありま しんひち)らは、尊王派志士・真木和泉(まき いずみ)と共謀して関白・九条家や京都所司代・酒井 忠義(さかい ただよし)を襲撃する事を決定し、寺田屋に集結しました。
これを察知した薩摩蔵主の島津 久光(しまづ ひさみつ)は書状を送り慰撫しますが、有馬たちは問答無用とばかりに一蹴、これに激怒した久光は薩摩藩士9名を上意討ちの刺客として派遣します。結果、寺田屋に粛清の血の雨が降り、これが世に言う「寺田屋事件」です。
この時亡くなった有馬をはじめとする薩摩藩士たちは、お登勢の友人であった西郷 隆盛(さいごう たかもり)の手によって、伏見の「大黒寺」に手厚く葬られています。

さて、今一人、お登勢と顔馴染みで、この伏見に縁深い人物を紹介するならば、それは新撰組局長の近藤 勇(こんどう いさみ)と言うことになりそうです。
新撰組は江戸の寄せ集めの下級武士によって構成された「浪士隊」から出発し、洛中の壬生寺界隈に住まいます。文久3年(1863)には京都守護職・会津蔵主 松平 容保(まつだいら かたもり)御預りとして公儀警備隊となり、その後、市中警護に功績を立てた新撰組は浪士採用を増やし西本願寺を屯所としますが、慶応3年(1867)には薩長藩士が不穏な動きを見せ始めた伏見の町へ、「誠」の御旗を靡かせながら突入して行きます。
屯所となった伏見奉行所は、鳥羽伏見の戦いの際、薩摩軍の砲撃が火薬庫に命中して炎上、新撰組は撤退を余儀なくされました。現在は閑静な住宅地に様変わりし、ポツンと碑が残されているだけですが、その前に立てば無性に胸が熱くなります。

また、近藤に期待された参謀的存在でありながら、袂を分かち、御陵衛士(ごりょうえじ)を組織した伊藤 甲子太郎(いとう かしたろう)も、たびたび伏見へ足を運んでいます。
京都東山の高台寺を屯所としていた御陵衛士は、新撰組のような佐幕派とは一線を隔す新時代主義を謳い、尊皇攘夷派の薩長土肥の要人たちと交流を深めていました。
伏見の薩摩藩邸にも頻繁に出入りしていた御陵衛士たちは、待ち伏せや辻斬りの横行する竹田街道を避け、京の街区から「高瀬川」を行き来する小舟を使うことが多かったようです。

さて、風雲急を告げる慶応3年(1867)、ついに天皇中心となる“王政復古の大号令”が発令され、第十五代将軍・徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)の官職返上・領地没収が決定します。しかし、徳川方筆頭である会津藩、桑名藩などはこれを不服とし、薩長連合や公家を主体にする尊王側と一触即発の状況となりました。
翌年、慶喜は薩摩征伐を名目に上洛を開始、先導隊を伏見奉行所へ配置すると、続いて幕軍本隊を伏見街道や鳥羽街道へ進軍させました。
そして、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽街道沿いの城南宮付近において決戦の火蓋は切って落され、「鳥羽伏見の戦い」が勃発したのです。
伏見の町には雨霰と銃弾が飛び交い、砲撃によって街区の大半が焼失、夥しい戦死者が放置され、酸鼻を極める状況でした。

今も京阪電車伏見桃山駅前に建つ料亭「魚三楼(うおさぶろう)」には、出窓の格子に鳥羽伏見の戦いの弾痕が生々しく残っています。この魚三楼は薩摩藩の炊事方を任された老舗で、西郷隆盛や大久保 利通(おおくぼ としみち)といった面々も伽羅色の玄関をくぐっていたようです。

魚三楼に隣接する「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」は、薩摩軍の拠点となりました。ここは日本名水百選の「御香水(ごこうすい)」が滾々と湧き出し、伏見中の蔵元から崇められる神聖な場所です。
御香水は貞観4年(862)に湧き出したと言われ、澄んだ味わいと軟らかな口当たりは京都人に評判で、週末ともなれば水を汲みに来る人並みが絶えません。

社の本殿は狩野派の鮮やかな壁画に飾られ、雅やかな桃山文化を今に伝えていますが、その境内には官軍の兵士たちが大挙整列していたそうで、当時取り壊された伏見城の石垣が無言のまま座り続けています。
おそらく霊験あらたかな宮水は、錦の御旗を掲げる官軍にとって“力水”となったことでしょう。

そして、この伏見の名水を使い、216年間にわたって艶やかな“女酒”・日出盛(ひのでさかり)を醸し出しているのが松本酒造なのです。
創業は寛政3年(1791)。つまり銘酒・日出盛は、京都伏見の栄華と激動の時代を生き、数多の偉人たちにこよなく愛されてきたと言えましょう。
高瀬川の水面にかがよう、ノスタルジックな蔵棟。そこには、古き良き日本の美しさと変わることのない伏見の魅力が息づいています。
今宵は、龍馬に、勇に想いを馳せて……いざ、日出盛の物語を一献仕り候。