

今年81歳を迎えるとは見えない矍鑠とした体躯、溌剌とした語気。そのドッシリと構えた物腰が、いかにも蔵主然としている松浦恭之助(まつうら きょうのすけ)会長は、昭和3年(1928)の生まれ。銘酒「鳴門鯛」に66年の人生を投じてきたツワモノです。
冒頭、恭之助会長の幼少時代についてうかがうと、日本が軍国化に向けて歩み始めた頃で、大陸向けの軍需産業は活性化したが商工業は疲弊し、国内経済は麻痺し始めていたと語ります。
「祖父や父によく聞かされたのですが、大正デモクラシーなどという世相も過ぎ去って、だんだんと景気も悪化し、デフレとインフレが拮抗しているような時期でした。満州や朝鮮へ日本の資本が流出し過ぎて、国内は冷え切っていたんでしょうね」
恭之助氏は、幼少の頃、徐々に酒米供給が制限され始めたことで祖父の九平や父・寛平の苦悩していることを、子どもながらに感じ取っていたと言います。そして、聴かされた戦時の秘話には、まさに“激動の昭和時代を生き抜いてきた”ことを裏付けるような、貴重な体験談がありました。
昭和19年(1941)、旧制中学4年生だった恭之助氏は学徒動員に駆り出されます。
本来なれば5年生で卒業し、広島県高等工業専門学校(現在の広島大学工学部)の醗酵学科に進学する予定でしたが、いわゆる太平洋戦争下の「銃後の護り」として愛知県半田市の航空機製造工場に動員されたのです。
「一億総火の玉」「欲しがりません!勝つまでは」そんなスローガンを無理やり口ずさみながら、恭之助青年は故郷・鳴門を離れて、勤労奉仕に明け暮れたのです。その頃、一部の同級生たちは、「日本男児の掉尾を飾らん!」とばかり、士官学校や予科練習生に次々と志願して行きました。
そして昭和20年(1945)8月6日、運命の日はやって来ます。
非常時のため、その4月に強制的に中学校を卒業させられていた恭之助氏は、ようやくと広島県高等工業専門学校の授業が始まると聞かされ、7月末に学徒動員先より帰省。柳行李を担いで、一路広島市へと向かいます。
そして、授業が開始されて早々、原子爆弾が投下されたのです。
「人の運命、命の遇不遇とは何なのか・・・・・・若いながらに考えさせられました。
私は校舎の壁際にいて、閃光を受けなかったのです。しかし窓ガラスの横に座っていた友人は、まともに光線を浴びました。地獄絵さながらと言いますか・・・・・・。今思えば、あんな廃墟の中からこの飽和した時代に、よく日本は戻ったと思います」
感慨する恭之助会長の表情は、深い安堵のような、しかしさりげない哀愁も感じさせるものでした。
さて終戦後、広島県高等工業専門学校を卒業した恭之助氏は国の財務局(現在の国税局)に勤務し、蔵元後継者への道を歩み始めます。そして、昭和33年(1958)には実家に戻り、八代目として本家松浦酒造場の屋台骨を与りました。
昭和30年代は神武景気・岩戸景気の到来で一気呵成に成長したが、昭和40年から50年代当初は流通マーケットに取り組む新たな時代だったと、恭之助氏は日本酒業界の趨勢を振り返ります。
「あの頃、競合他社との値引き合戦へ突入して行った酒蔵は、徳島県でも消えてしまいました。暮らしが豊かになると言うことは、それだけ需要も多様化してくるわけです。つまりは、それまで信頼していた主力商品がだんだんと売れなくなってきます。だからと言って、自社の現状に不安をかかえ、即座に価格勝負するようでは、酒本来の品質も危ぶまれます。私は“常に需要は変わるもの”と、商品が売れていても褌を引き締めていました」
なるほど、引く引かない見極めにも、命がけの体験を積んだ恭之助氏の眼力があったようです。
平成9年(1997)には、大手酒造メーカーに勤務していた一雄氏がいよいよ戻り、会長、社長の親子二人三脚が始まりました。
現在の本家松浦酒造場の石高は2000石、社員は34名です。
最近では“すだち酒”“にごり梅酒”など新たな商品展開が功を奏し、関東・関西での人気も高まっています。

「いずれにしましても、鳴門鯛の銘柄を選んでいただける昔からのご贔屓客様を、まず一番に考えることですね。そこから新しいお客様につながり、ファンが増えます。また、商品開発に取り組むのにも、自分たちの我田引水な考えだけでなく、社外の方々の謦咳に接することも大切です」
実際、数十年前に恭之助会長の醸造学の恩師が、とある北日本の酒蔵を指導し、傾きかけていた身代を一気に立て直すほどの美酒を生み出したそうです。それも含めて、常に業界の人たちとの交流は、大切な課題だと言います。
恭之助会長の趣味は囲碁。しかも、無類の碁盤マニアとのこと。コレクションしている素晴らしい碁盤も、みやげ話に拝見しました。
おそらくは、その盤面にピシリと一局打ちつつ、次なる商いの構想に耽った時代もあったことでしょう。