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賀茂鶴酒造株式会社 ~プロローグ

酒都・西条 賀茂鶴酒造

梅雨の雲間から顔を覗かせた陽射しが、中国山地の稜線を艶やかに映し出します。
みずみずしい新緑を車窓から愛でつつ、取材班は西国の酒都として知られる東広島市西条町に到着しました。
西条町は日本屈指の酒どころとして知られ、左党憧れの聖地と言っても過言ではないでしょう。なまこ壁が風情を偲ばせる町並みは酒造りとともに生まれ、酒蔵とともに幾星霜の年月を歩んできました。
林立する煉瓦造りの煙突、赤いあぶら瓦を連ねる大屋根が象徴的に佇み、伽羅色の門構えや出格子の棟々が往時の姿を偲ばせます。

静謐な気配に包まれた酒蔵通りには、各社のくみあげた井戸水を汲む人々が訪れ、今も昔も変わらぬ美酒の味わいを髣髴とさせます。
酒の都は、いずこも水の都。もちろん西条の町も、天恵のしずくに連綿と潤されてきました。
町の背に座る賀茂山系からは、ブナや欅の森に深く浸透した雨水が清冽な伏流水となって下ります。酒造りに最適なこの中硬水は、水郷の里百選にも指定されているのです。


西条の歴史を紐解けば、ここが日本の創成期より西国の行政・経済の要所であったことを理解できます。その証しと言えるのが、天平13年(741)に創建された安芸国分寺の存在でしょう。遺構から推察できる規模は東西約200メートル、南北130メートル。七堂伽藍と35棟の僧坊が連なり、安芸国一帯を束ねる最大級の行政府だったようです。
奈良王朝の時代、山陽から九州方面の西国では内紛や抗争が勃発し、朝廷にとっては最も掌握しにくい地域でした。このため西国道の各地に国分寺(国府)を設け、駅伝吏を頻繁に往来させ、国造(くにのみやつこ)の行政指導と情報収集を徹底しました。
ちなみに、当時の駅伝吏などの官僚たちは国府に到着するごとに一夜を宿りながら、地の酒を飲み、長旅の疲れを癒したと古い文献にあります。さすれば西条酒の源流は、すでにまほろばの時代から始まっていたのかも知れません。
標高200~250メートルの西条盆地は、良質の水と寒暖差のある気温、瀬戸内のおだやかな気候に育まれた穀倉地で、賀茂郷と呼ばれていたそうです。平安期には貴族の荘園として管理され、豊かな稲作が営まれました。

筆者の調べたところでは、賀茂の地名は、この一帯の荘園を所有していた賀茂一族に由来するようです。
賀茂氏は神話時代より陰陽師として帝に貢献した一族で、爾来、日本全国の行政官として枝分かれしていったと言われます。遠祖である賀茂建角身命(かもたてつぬ のみこと=京都・下鴨神社の祀神)は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)の勅命を受け、八咫烏(やたがらす=太陽の中に住む三本足で赤く金色に輝く烏/鳳凰とも言われる)に化身して、神武天皇即位 への道を切り開いたと伝わっています。
これらの説からも、西条の地は歴史ロマンを秘める日本の心の故郷でもあるわけです。

武士の時代に移ると、西国の拠点となった西条を武田氏、大内氏、毛利氏など安芸の土豪たちが我が物にせんとしのぎを削ります。そして、室町時代初期には大内氏によって領されました。
当時、西条の地名は四日市次郎丸と呼ばれ、長禄元年から寛正7年(1457~1466)頃、町近郊の鏡山に砦館が普請されました。大内氏はここを鏡山城と名付け、西条支配の拠点としました。

戦国時代中期には山陰から芸備への覇権を狙う尼子氏との間で四日市の争奪戦が繰り返され、大永3年(1523)には毛利 元就の軍勢を先鋒とする尼子 経久が城を落とし、安芸進出の糸口を作ったかに見えました。しかし、その後徐々に力を蓄えてきた毛利氏は尼子氏に叛旗を翻すや鏡山城を奪取、再び四日市は安芸の国人によって領されることになったのです。
閑寂とした丘に残る城郭の土塁、苔生した大手門の石垣、古びた井戸の朽ち肌を見つめていると、いずこからか、もののふたちの阿鼻叫喚が聞こえてきそうな気配です。
夏草やつわものどもが夢の跡……紫色の一輪の紫陽花が、彼らへの香華のように梅雨の中でほころんでいました。
江戸期に入り天下泰平の世を迎えると、山陽道が整備され、武家・商人など往来する人波が急速に増え始めます。また西条の南に位置する安芸津の湊は西国上陸への海の玄関口となり、泉州や摂津からの上方船、果 ては江戸からの大型船も渡航してきました。
西条は街道を行き交う人々で賑わい、山陽道最大の宿場町へと発展します。
旅人に賑わう所、常に美酒あり。

行商人たちはもちろんのこと、西条には江戸への参勤交代を命じられた西国諸藩の大名たちも大挙して訪れました。
徳川幕府は、参勤交代の大名が船によって江戸入りすることを禁止していました。これは軍船をカモフラージュして江戸へ攻め込まれるのを防ぐためで、つまり西国の大名たちは、家臣団や御女中衆の長い行列を率いて西条の町に逗留することとなったのです。

西条を所領としていた三次浅野藩は、これらの接待役をつつがなく執り行うために、直轄の本陣「御茶屋」を設けました。御茶屋は広島領内にあった9カ所の本陣の中でも最大規模でした。今回訪問した賀茂鶴酒造株式会社には、往時の本陣にあった門構えが広島大学の先生により監修され、復元されています。
天下を支える名君たちがこの大門をくぐり、薫盃を重ね、西条の美酒に酔いしれました。その時から、「安芸四日市・小島屋の美酒」の名声は上方へ、さらに江戸へと伝播していたことでしょう。

西条の旨い酒とともに忘れてはならないのが、安芸津杜氏の存在です。
広島の美酒を研ぎ澄ませてきた安芸津杜氏の里は、西条町からほど近い東広島市安芸津町。美しき芸予の島並みに面 した海沿いの町は万葉集にも名を詠まれ、かつては遣唐使船の寄港地でもあったそうです。
その素朴な酒人の町を世に知らしめた名人が、明治時代半ばに軟水醸造法を開発した三浦 仙三郎です。広島の地を潤す伏流水は、灘の宮水などの硬水に較べ発酵力が弱く、腐造することも多々ありました。この困難を克服するため、彼は麹造りを探求し、軟水仕込みによる上質の酒=広島の酒を確立していったのです。

彼の功績によって広島は灘、伏見に匹敵する三大銘醸造地として注目され、
大正7年(1918)には広島県工業試験場に醸造部を設置、さらに昭和3年(1928)には西条に旧・広島県醸造試験場西条清酒醸造場が設立され、これをきっかけとして西条の酒造技術はさらに飛躍を遂げることとなったのです。
実は、この三浦 仙三郎とともに、西条の酒文化を押し上げた傑物が、賀茂鶴酒造中興の人物。その人となりは、歴史編で紹介することにしましょう。

取材班が西条町を訪れたのは、おりしも「平成17酒造年度全国新酒鑑評会」の審査公開日でした。
会場の東広島運動公園アクアパーク体育館は、酒造関係者から日本酒ファンまで“垂涎の美酒”を求めてやって来た人たちの熱気で充満!独立行政法人酒類総合研究所が主催する国内最大の日本酒イベントなのです。

今年の審査に提出された出品酒は997点。その内、入賞は508点で、金賞酒の栄冠を勝ち取ったのは253点という結果 でした。
延々とテーブルに並んだ酒瓶の前を、肩を詰めあう人波がシュルシュルと酒を啜りつつ進んでいきます。
その真剣なまなざし、香りや味を確かめる表情に、日本酒を愛してやまない人々の情熱とこだわりがひしひしと伝わってくるのです。
「この緊張感こそ酒都の伝統!この熱気こそ西条の魅力!」とばかりに、筆者も唎き酒の列に加わります。
そこには、みごと金賞の札を輝かせる銘酒・賀茂鶴も並んでいました。

みずみずしい調べを奏でる「吾妻子の滝」、清冽として輝き走る「武士の滝」など、西条には美しい水の流形がそこかしこに描かれています。
悠久の時代より絶え間なく流れる名水の命は、やがて西条酒の魂となって、至福のしずくを醸し出します。
守り伝える西条町の憧憬、語り継がれる賀茂鶴酒造の伝統、そして、飲み愛される賀茂鶴の余韻……酒の都を織りなす美酒の物語を、それでは始めることとしましょう。