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株式会社三宅本店 ~プロローグ

潮煙る瀬戸内海 音戸の瀬戸の眺望

おだやかな凪の瀬戸内海に、うねっては伸びる紺青の澪(みお)。それをたどり航くタンカーや貨物船が、真夏の陽射しと潮煙の中にたゆたっています。
ここは、芸予の海物語をつむいできた広島県呉市にある音戸の瀬戸。遥かな悠久の時代から瀬戸内への出船入船に賑わった海峡で、幾多の島なみに護られた船隠しの砦でもありました。

高烏山の平 清盛 像

音戸の瀬戸は、平安時代に日宋貿易の航路として平清盛が開削したと伝わっています。
ちなみに、清盛はこの港湾工事をたった1日で完成させようと、夕陽を崇めて燦然たる光を海峡に招いたと言われます。その伝説を髣髴させるかのように、清盛の日照像が音戸の瀬戸を見下ろす高烏山に鎮座しています。
高さ2.7メートルの清盛像は音戸の瀬戸の開削800周年を記念して昭和42年(1967)に建立され、立烏帽子と直垂をまとった平清盛が水平線に落ちる太陽を引き寄せるかのように西へ扇をかざしています。
眼下には渺茫たる瀬戸内海が広がり、この海原を縦横無尽に疾駆していた海賊たちを配下に従えることで宋貿易を振興させた清盛を追想するのは、筆者だけではないでしょう。

日本一短い音戸渡船

音戸の瀬戸は呉の町と倉橋島(音戸町)に挟まれ、幅はわずか90mの狭さです。しかし船の1日通行量は約700隻とめまぐるしく、航行が可能な深さを持つ幅60メートルの航路には聳えるような1000トン級の大型船舶も通り、船首に砕ける波頭としぶきに驚かされます。
この狭い海峡を通過する潮流は一気に速くなるため、人が泳いで渡ることは難しく、かつては多くの渡し舟が往来していました。
その名残りとして、現在も日本一短い渡し舟「音戸渡船」が両岸から行き来しています。

音戸大橋

音戸渡船は片道たった70円の安さで、小さな桟橋に立てば一人きりでも舟を出してもらえるという、親切かつユニークな存在です。
筆者が桟橋のたもとに立つと、舳先でくつろいでいた船頭さんが人懐っこい笑みを浮かべながら問わず語ってくれました。
「わしの若い頃は歩行者と自転車を乗っけて、毎日何度も往復したもんだが、音戸大橋が開通してからはめっきり利用する人が減っちまってね。今は、観光客に人気ですよ」
船頭さんの見上げる先には、小さな渡船を見守るかのように2本の赤い音戸大橋が青い空に架かっていました。

この音戸大橋が開通した昭和36年(1961)頃、日本は高度経済成長期が始まったばかりでしたが、かつて戦艦大和や航空母艦を生み出した日本屈指の軍港のプライドを鼓舞するかのように、呉の造船産業も戦後復興の一役を担います。
空前の造船ブームに、昭和40年代は巨大なタンカーや貨物船などを建造する企業が呉の沿岸にひしめき、人口も急激に増加。この造船業の発展のためにも、総工事費3億6200万円の音戸大橋が誕生したのでした。

船が行き交う橋の下

音戸大橋が脚光を浴びたのは、海中に橋脚を持たない新しい構造のためでした。
大型船舶が海峡を通るためには、充分な橋の高さが必要です。しかし、海中に長い橋脚を建設すると安定が悪くなります。さらに倉橋島には橋桁を打ち込む地盤が少ないため、苦肉の策として螺旋型になったわけです。
あたかもそれは、音戸の瀬戸を開削した平清盛の斬新な発想と似ており、真っ赤な音戸大橋の色も清盛とゆかりある厳島神社の大鳥居に合わせているのだそうです。

安芸灘大橋と下蒲刈町

さて、平清盛の恩恵を営々と受け継ぎ、中世から徳川時代まで瀬戸内航路の拠点を担った呉周辺には、アジアとの交易や国交を偲ばせる島々が点在しています。中でも、安芸灘大橋の架かる下蒲刈町(旧・下蒲刈島)は古くから瀬戸内航路の中継地として栄えた島で、町内のそこかしこに繁栄の足跡と異国情緒を散見できます。 徳川時代の慶長12年(1607)から文化8年(1811)にかけては、この下蒲刈島へ朝鮮通信使が頻繁に来航し、それは11度に及んだと記されています。

壮大な船団は朝鮮帆船6隻に対馬藩の船が40隻、これに随行する800隻もの小船という規模で、接待役の広島浅野藩は惜しみなく藩財を投じて歓迎し、比類のない接待に「安芸蒲刈御馳走一番」と通信使たちから称賛を与えられたのです。
その館が、鄙びた港町の中心部に広大な敷地を構える松濤園(しょうとうえん)。江戸時代に朝鮮より通信使が渡航した際の接待所として設けられた豪壮な館で、これを補修し、延床面積1,362㎡の建物を一般公開。館内には当時の通信使への歓待ぶりや豪華な料理を忠実に復元した展示室、通信使の行列人形を配したジオラマ模型なども展示されています。
朝鮮の大型帆船が接岸したであろう波止場の道を歩けば、白亜の館と碧い入り江のコントラストに瞳を奪われ、海道ロマンに思いを馳せることでしょう。

松濤園(しょうとうえん) 朝鮮通信士が渡来
大和ミュージアム

海運の進歩とともに育まれた呉は、近世に入ると軍港として発展を遂げていきます。
明治22年(1889)、第2海軍区鎮守府が呉に置かれ、同時に造船部が開設されました。往時の政府は、アジア周辺に艦隊を航行させる欧米列強を阻もうと、迅速に日本海へ軍艦を向かわせるために呉港を拡充、明治36年(1903)には日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生しました。
さらに昭和の太平洋戦争下では、戦艦大和を筆頭に幾多の名艦が建造され、東洋一の軍港・日本一の工廠として国民の大和魂を鼓舞したのです。

大和ミュージアム
その海軍工廠の矜持を今に伝えるのが、「大和ミュージアム」でしょう。平成17年(2005)に完成した大和ミュージアムは、年間平均100万人の来場者を誇る呉市のランドマークになりました。
正式名は呉市海事歴史科学館で、港町の発展と歴史、さらには造船・製鋼など地場産業の卓越した技術を紹介していますが、10分の1スケールで建造された全長26.3メートルの精巧な戦艦大和が、老若男女を問わず、修学旅行の生徒たちから昭和一ケタ世代まで幅広い見学者を魅了しています。

また、大和ミュージアムの隣には平成19年(2007)に開設された「海上自衛隊呉史料館~てつのくじら館~」が、日本初の実物の巨大潜水艦を使った資料館として威容を誇っています。ここは潜水艦の発展と現況、掃海艇の戦績と活躍に関する歴史的な資料を見ながら、海上自衛隊の歴史や、呉市と海上自衛隊の歴史的な関わりについて紹介する史料館です。

てつのくじら館

陸揚げされた実物の巨大潜水艦に乗艦すると、その艦内には艦長室や士官室など、潜水艦内での生活の一部が再現されています。また、潜水中の環境や生活を疑似体験したり、その構造を実際に「見て」、「触って」、「体感する」など、貴重な体験ができる史料館なのです。

榊山八幡神社

呉の軍港発展に牽引され、広島の酒もまた世に名声を響かせました。つまりは、軍用酒として戦艦や航空母艦、輸送船に至るまで美酒が積み込まれ、満州やアジア大陸へ送られたわけですが、灘の辛口酒に拮抗するかのような、軟水仕込みの旨口の酒がその特長でした。
この広島酒の杜氏の故郷は、呉のお隣にある海辺の安芸津町。当然、呉の酒蔵は安芸津杜氏や蔵人たちによって支えられたと言っても、過言ではありません。

三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう)
石造りの酒樽

明治初期までの広島酒は発酵が遅く、甘口で重い味の酒でした。それは軟水で仕込むことが原因でしたが、これを改良し、甘さがふくよかで、キメ細かな味わいの美酒を造り上げた男が安芸津の酒造家 三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう)でした。彼は、後に「軟水醸造法」と呼ばれる画期的な手法を開発し、明治40年(1907)には第一回全国清酒品評会で上位を独占。安芸津杜氏の卓越した技を全国に知らしめたのです。
安芸津町の酒神を祀る榊山八幡神社には三浦氏の功績を称える銅像が建てられ、広島のみならず全国の酒造関係者や日本酒ファンが足繁くやって来ます。なんと本殿の両脇は、狛犬ではなく石造りの酒樽に護られ、杜氏と蔵人の町らしさを実感させました。

呉の造船ドック

幾星霜にわたり瀬戸内の海運の進化を見守り、日本の造船業を振興させた呉市。港には造船用の巨大なクレーンが林立し、修理中の船舶がひしめき合う中には、かつて戦艦大和を建造した造船ドックも残されています。
さらに街の中では、見上げるほど巨大なスクリューや戦艦大和の錨(レプリカ)などが旅する人を出迎えてくれます。

そして瀬戸内の珍味とともに、ノドを潤し、疲れを癒してくれる銘酒「千福」も、忘れられない呉のホスト役。その馥郁とした旨い酒を口にした途端、かつて大きな反響を呼んだ「千福いっぱい、いかがです?」のコマーシャルソングが、筆者の記憶の中で鮮明に甦りました。
では、この名セリフに秘められた株式会社三宅本店の酒物語を紐解くことにしましょう。

スクリューと戦艦大和の錨 銘酒 千福