Vol.16 男のラベル

マチコの赤ちょうちん 第一六話

「もうすぐクリスマスかあ……若い奴はいいよな。ツーショットでホテルのディナー、シャンペンで乾杯か」
カウンターに座る澤井が、あくび交じりの大きな声を吐き出した。
「しーっ! 声がでかいよ、澤井ちゃん」
唇に指を当てる辻野の後ろで、若い塚田哲也が虚ろな表情のまま熱燗を啜っていた。
真知子も、さりげなく澤井に目配せをした。
この界隈の大学に通う下宿生の塚田は、アルバイトが終わる遅い時刻からマチコへ現れた。看板間際の来店が続いたが、真知子は垢抜けしない雰囲気の塚田が気に入り、特別に許していた。
ひと月ばかり前、彼は同郷の愛媛出身の恋人ができたことを、照れながら皆に公表していた。江津子という名だった。
だが、今夜の雰囲気から、どうも雲行きが怪しいのではと真知子も察したのだった。口ごもる澤井と惚けた顔で煙草をふかす辻野に、徳利を手にする塚田が歩み寄った。
「澤井さん。この前の彼女の話し、取り消します。ハハハ、ハ・・・はぁ」
カウンター席に腰を落とすと、落ち込む塚田は三人の前でポツポツと語り始めた。
江津子は、郷里では有名な総合病院の一人娘だった。
方やお嬢様女子大生、塚田は三流大学の留年生。どう秤に掛けても釣り合わないが、きっかけは他愛もないことだった。
下宿近くのコンビニドラッグストアでアルバイトをする塚田は、毎週決まって頭痛薬を買い求める江津子が気にかかり、釣銭を手渡しつつ声をかけた。
上京一年目の彼女は、豪華な女性専用マンションに一人暮らすものの、不安と孤独感から軽い鬱病にみまわれていた。医者の娘がよもやとは思ったが、江津子は気位の高い両親を疎んじていた。
アルバイトを終えた塚田は足繁くマンションの玄関先に通い、日々の出来事を面白おかしく語った。
医者を嫌がる江津子を説得し、カウンセラーへも連れて行った。
銀杏並木が黄色く染まる頃、江津子はようやく立ち直り、「ありがとう、哲ちゃん。人としてこんなに大事にしてもらったの、私初めて」と、ごく自然に唇を許していた。
熱くなる自身の頬に、塚田は思わずはにかんだ。
しかし、その診断書は、医療機関から江津子の両親へも送られていた。
ふいに江津子の父親が上京し、アルバイト先のコンビニを訪れた。
「どうも世話をかけましたな。ところで、いくらほどお渡しすればよろしいか?」
恰幅の良い父親は、にべもない口調で財布を開いた。
「そんな物、いりません!それより、江っちゃんは」
温和な性格の塚田が、毅然として言葉を返した。
「あんたごときに、心配はしていらんよ。塚田さん……でしたな。大学はどちらでしたか?今年は卒業できそうですか? 将来はどうするのかな?」
塚田には、返す言葉が無かった。
「ずっとこのまま、コンビニマートの塚田哲也さんかね」
制服の名札を一瞥し、江津子の父親は出て行った。
その数日後、マンションから江津子の表札が消えていたと言う。
「手切れ金ってことか!その親父、まったく分かってないな。君がコンビニで働いてなきゃ彼女とは出会ってないし、立ち直れてもなかっただろ!」
カウンターを叩いて昂ぶる澤井を、辻野の穏やかな言葉が押し止めた。
「大学や会社の肩書きで、人の価値が決まるもんじゃない。そんな時代は終わった。江津子さんは塚田君を忘れないだろう。もう、大丈夫だよ……本当の幸せって何なのか、解ったんじゃねえかな」
黙する塚田は、辻野に注がれた酒をぐっと飲み干した。

 真知子が、厨房の戸棚から四合瓶を取りだした。辻野も澤井も見覚えのない、淡い緑色の瓶だった。
「愛媛のお酒だけど、ラベルは無いの。でもね……手造りでとっても優しい味がするの」
真知子は栓封を切ると、三人に酒をふるまった。
カウンターに置かれた瓶が、和らいだ塚田の表情を映していた。
「かざらない、そのままの優しさこそ、男のラベルかもな」
眦をゆるめる辻野が、塚田に杯を合わせた。