Vol.8 マチコの赤ちょうちん

ポンバル太郎 第八話

 キコトン、キコトンと、レールを軋ませる都電荒川線の黄色い車両が、日ごとに茜色がかってきた夕陽に向かって行った。
初夏の陽だまりのぬくもりを残しているホームには、太郎と息子の剣の長い影が並んでいる。
「父ちゃん。マチコって、どんな居酒屋なのかなぁ。僕、楽しみだよ」

 子どもらしからぬ剣の言葉を、ポンバル太郎を手伝わせている時間は平然と聞き流している太郎だったが、一緒に出かけた街の中で聞かされると、自分の教育はまちがってやしないかと逡巡してしまう。近頃の剣は、太郎と客の会話から聴き覚えた日本酒の知識だけでなく、酒の歴史も図書館で調べてポンバル太郎の贔屓客たちに披露し、「小学生の記憶力、恐るべし!」と目を白黒させる場面もある。

 今夜のマチコ行きは、太郎が気になっていただけでなく、そんな剣がしつこく口にしたからでもあった。きっかけは、店にやって来た松村和也について太郎と銀平が何気なく話しているのを耳にしたことだった。
「あの……小学生を連れて行っても、差し支えないでしょうか?」
「ええ、うちは子どもみたいなお客さんばっかりだから、大丈夫ですよ」

 電話口で、真知子と名乗る女将は親しげな、耳に快い声音を返した。
太郎が伝える松村の来訪やその夜のなりゆきに、
「あの人は、典型的な“大人の子ども”だから。ご迷惑をかけたなら、ごめんなさいねぇ」

 と小さな笑いを洩らしたが、自ら居酒屋を巡り歩き、松村に遊び心を起こさせた真知子も同じような人物なのだろうと太郎は何となく嬉しかった。

 派遣仕事の帰りらしき女性たちで混雑する改札を出ると、焼き立ての香ばしい煎餅の匂いがして、剣が鼻をクンクン鳴らした。
善屋の古めかしい金看板が掛かる煎餅屋で、太郎は店先に立つ若旦那らしき男にマチコへの道を確かめた。偶然にも若旦那はマチコの贔屓客で、教えたくないほど良い店と絶賛した。

 赤提灯に映えるマチコの前に立つと、太郎が格子戸に手をかけながら
「いいか、剣。いきなり酒のウンチクなんか、しゃべるんじゃねえぞ」

 と剣が着ているお気に入りのサッカー日本代表のユニフォームシャツを引っ張って、念を押した。
「でも~、いろいろ訊いてみたくなるかも……例えば、通常のお燗酒の温度とかさぁ、お店によってちがうはずだよ」
「あのなぁ……お前は小学生なんだから、もうちっと、ガキっぽい話題ってねえのかよ。まいったな」

 つぶやいた太郎が視線を感じて振り返った時、見覚えのある顔がほころんでいた。
「そりゃあ、仕方ないでしょ。太郎さんの血を引いてんだから。もっとも、俺たちは日本酒つうだから大歓迎ですよ……剣君だっけ? よろしく、俺、松村ってんだよ」

 オヤジ仲間らしき二人の男を連れた松村は太郎に目で会釈すると、剣の前で中腰になり、スポーツ刈りの頭を撫でようとした。

 すると剣はおじることなく、はにかみもせず、ポケットから煙草とライターを取り出し、松村の手に握らせた。松村が、ポンバル太郎に置き忘れた物だった。太郎が知らない間に、忘れ物入れの籐かごからそれは消えていたが、用意周到に剣が持っていた。
「松村さんの忘れ物でしょ。今日、マチコに預けるつもりでした。それと……すみませんが、うちは日本酒の香りと味わいを大切にしたいので禁煙なんです」

 剣はおもねることなく、太郎のお決まりのセリフを噛むように復唱した。
「へっ!? あっ、ああ、そうだったの。そりゃ、知らなかったよ。なっ、なるほどね!」

 どぎまぎと答える松村に、いたずらっぽい笑みを浮かべた二人の男が思わず吹き出し、苦笑した。
「おい、和也君! マチコに恥をかかしたんじゃないだろうなぁ」
「和也が、日本酒つうってか。じゃあ、剣君と酒問答でもやってもらおうかねぇ」

 その時、騒がしい店先をとがめるように格子戸が勢いよく開いた
「ちょっと、あんたたち! ご近所迷惑、さっさと入んなさいよ。……あら!? これは若いお客様ねぇ。剣君ね、いらっしゃい。私は真知子、いろいろお話しを聴きたくて剣君を待ってたのよ」

 色白の肌に薄化粧をしたうりざね顔の女性が、ふくよかな口元をほころばせていた。

 鴇色の小袖の上に白い割烹前掛けをした真知子は剣の前にしゃがみながら、太郎にも 視線を向けて
「ようこそ、いらっしゃい」
とほほ笑んだ。
どうして真知子が剣の名を知っているのかと戸惑う太郎の肩に、二人の男たちが手を置きながら、まだ客のいないマチコの中へ誘った。
「松村君から、ポンバル太郎さんはステキなお店と聞いてます……あの煙草とライターは推察するに、わざと忘れたのかも。
彼なりの誘い方だったと思いますよ。仕事は広告プランナーだし。でも、いい奴なんですよ」

 和也を褒めそやす男たちは、宮部と水野とそれぞれ名乗った。
カウンター席に座りながら、どちらともなく、知るはずもないポンバル太郎の雰囲気や店構えについて称賛を始めた。どうやら松村から微に入り細に穿ち、伝わっているらしかった。
太郎はそれに生返事しながら、松村の仕掛けにまんまと乗せられたのかと、剣をテーブルに座らせて料理を注文する彼を見つめた。
しかし剣を子ども扱いせず、さっそくマチコの冷蔵庫に並ぶ酒を紹介する松村の後ろ姿に、腹立たしさは霧消した。そして、今しがたの真知子の応対や、宮部と水野の取りなしに忘れてかけている、ある言葉を思い出した。
それはハル子が生きていた頃、客たちが口にしていた“慈しみ”だった。
商売上の気遣いとかサービスではない、ごく自然にあふれる人としての優しさや、もてなしの心。ハル子は、それを惜しみなく客に与えていて、彼女の器量は生まれ持った宝物だと称えられた。
今思えば恥ずかしいが、太郎はハル子に嫉妬した時さえあった。
そんな回想を、真知子の声が止めた。
「水野ちゃんに宮さん、初めていらしたお客様に質問責めは失礼でしょ。まずは一杯、私から差し上げるのが筋ってもん。……ようこそ太郎さん、先日はごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました。でも、驚きました。うちの店やら剣のことまで、よくご存知ですね」

 皮肉を返すつもりはなかったが、太郎は真知子の人となりを確かめるかのように、無意識に答えていた。

 真知子は常温の酒をグラスに注いで、しなやかな手つきで太郎に差し出した。冷やさず燗もしないその酒は、まず、利き酒をする酒匠に対する礼儀と太郎は悟った。
「ごめんなさいね、変な詮索や悪趣味じゃないの。私は、本物のお酒や美味しい料理があるだけじゃなくて、お客さんを喜ばせたり、癒したり、時には驚かせるのも、居酒屋の生きがいだと思うの。その気持ちがお客様同士に広がれば、もっとみんなの毎日が楽しくなると信じているの」

 だからマチコに一度来たお客様には、いつかまた来たくなるような楽しい時や仲間を創り、記憶に残してもらうことを一番大切にしていると語った。

 ふと、太郎の脳裏にハル子の面影がよぎった。生きていれば、いつかハル子も真知子のような女将になりたかったのかもと思った。

 真知子との長い会話が終わると、水野や宮部はいつの間にかやって来ていた顔見知りの客たちと、にこやかに酒を傾けていた。
「太郎さん。剣君、話し疲れたみたいです」

 肩越しに聞こえた声に振り向くと、剣がテーブル席で何度もあくびを洩らしていた。
勘定をすませてマチコの暖簾を出る太郎と剣を、店にいた全員が見送り、
「剣君、また今度、みんなでポンバル太郎に行くからさ。この人たちにも、お酒の話しを聞かせてくれるかな」

 と和也が代表してお辞儀した。
「任せといて。でも、煙草はダメだよ!」

 目を覚ました剣が繰り返すと、店先に揃った客たちがまいったとばかりに爆笑した。

 駅に向かって通りを歩きながら、太郎はこれまで味わったことのないひと時の余韻にひたっていた。
ふと、剣がつぶやいた。
「あのさぁ、真知子さんって、母ちゃんと同じ匂いがした。母ちゃんが使ってた、桃の花のクリームだよ」

 太郎は、はっと気づいた。
ポンバル太郎の厨房で今はフキン立てになっているハンドクリームの容器は、かつてハル子が愛用していた。
ひょっとしたらあの日、真知子はそれを見て、察していたのかも……剣を喜ばせ、驚かせるために仕組んでくれたのだろうか……だが、そんな邪推もまた、真知子が与えてくれた楽しさの一つかも知れないと太郎は笑ってすませた。

 通りの角まで来ると、太郎はマチコを振り返ってみた。

 赤い提灯の明かりの中で、たくさんの笑顔がいつまでも二人を見送っていた。