TOP > ポンバル太郎 > 第10回 早寿司 (その1)

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Vol.10 早寿司 (その1)

卯の花くたしの雨だれが、通りのそこかしこに灯り始めたネオンを濡らしている。

 傘をぶつけて行き交う男たちはお目当ての酒場へ急ぎながらも、ふいに漂ってくる甘酸っぱい匂いを嗅ぐと空腹を刺激され、後ろ髪を引かれるようにポンバル太郎の玄関に立ち止まっては、過ぎて行った。
厨房の換気扇から流れるその匂いは、店の杉扉の前までやって来た菱田祥一の嗅覚もくすぐった。
「いつもの匂いと、少しちがうな」

 江戸前の魚介類を使った酢の物がお気に入りの菱田だけに、太郎が独自にブレンドしている酢の匂いはすっかり鼻腔にしみ込んでいる。しかし、今夜はこれまでとちがった香りを含んでいるように感じた。
「こりゃ、どこかで嗅いだことがあるぜ」

 菱田の疑問へ同意するようにつぶやく人影が、わずかの差で、ポンバル太郎の扉に手をかけた。太い首をかしげながら鼻先をクンクン鳴らす、銀平だった。

 一年ぶりに出くわした菱田と銀平が「おっ、おお~!」と面食らっていると、二人の肩越しに女の声が飛んで来た。
「あんたたち、早う入らんね。今夜の垂涎の的! 江戸時代のファーストフードが売り切れるけん」
二人とも聞き覚えがある、手越マリの声だった。すでにマリはほろ酔いで、目尻の皴だけでなく呂律もゆるんでいる。
「マ、マリさん……そのファーストフードって、何だよ?」

 あねご肌のマリに熊本訛りでせかされた銀平と菱田は、同時につぶやきながら扉に吊られた木枡の鳴子を勢いよく鳴らした。
だが、店内の客は誰一人として振り向かず、カウンターには人だかりができている。
皆が口々に「へぇ~」や「ほほぅ」と声を洩らす先の厨房では、太郎が握った寿司を大皿に並べていた。
銀平と菱田は、甘酸っぱい匂いが寿司の酢飯のせいであることを納得しつつも、ネタの下から覗いているシャリの色に視線を釘付けにされた。
シャリが、ほのかな赤みを帯びていた。
さらに銀平が目を疑ったのは、作務衣にねじり鉢巻のいで立ちで、柿渋を塗った団扇を煽いでいる右近龍二の姿だった。シャリを冷ます手の動きは奇をてらうことなく、素直でしなやかだった。
「料理もこなせるとは、龍ちゃんはよか男たい。ますます気に入ったばい」
赤酒のテイスティング以来、彼のファンになっているマリが褒めそやした。
「う~む。手際も良くて、玄人はだしだな」
相槌を打つ菱田は、太郎から噂を聞かされていた龍二だと気づき、初めて目の当たりにした。
すると、なごやかな場の雰囲気を乱すかのように銀平の声が響いた。
「おう、龍二! 俺でさえめったに入れねえ厨房に新参者のお前がいるってのは、どういう了見だ。10年、早えんだよ!」

 鼻息を荒げる銀平に龍二の団扇が止まると、ほろ酔いの客たちは冷酒グラスを手にしたまま黙り込み、固唾を飲んだ。
菱田がなだめても銀平の怒りはいっこうに収まらず、ついには太郎が呆れ顔でとがめた。
「男の嫉妬かよ。まったく、みっともねえ。あのなぁ、今夜は俺が龍ちゃんに助っ人を頼んだの」
「へっ? ど、どうしてだよ。太郎さん、たいていの料理は作れるだろ。それに、ネタで勝負の握り寿司なら、この火野屋が、暖簾に賭けても文句は言わせねえぜ」

 剃り上げた額に青筋を浮かべる銀平が睨みをきかせると、龍二が鉢巻を取って詫びるように答えた。
「すみません。僕がこの“早寿司(はやずし)”の話しを太郎さんにしたら、一度復刻してみようかってことになったんです。それで、僕は昔の文献のコピーを持ってるし、以前に早寿司を作ったことがあるので、差し出がましく、お手伝いしてます」
「けっ、出しゃばりやがって。ところで、その寿司。やたらデカくねえか? それにシャリが赤いのは、どうしてなんだよ」

 意地を張る銀平が龍二に当たると、しびれを切らせたマリが口を開いた。
「だけん、それを今から龍ちゃんに教えてもらいながら、江戸時代の早寿司を酒と一緒に楽しむのが、今夜の催したい。銀平、あんたは黙っとれ」

 マリの一喝は押し黙っている客たちの気持ちを代弁していたが、気まずい空気を変えようと、太郎がおおぶりな握り寿司を手のひらに乗せた。寿司ネタは、光り物のコハダだった。
「この早寿司ってのは、いわば江戸時代のファーストフードだ。大きさもおむすび並みで、立ち食いの屋台で売ってた。つまり忙しく働く江戸の職人たちには、もってこいだったわけだ」
当時は、電気なんてない暮らしだから庶民は朝5時から働き、10時には腹がへって早寿司の立ち食いに行列ができた。ネタが大きく、シャリの量も多いので、二つも食ったら充分だった。そして15時に仕事を上がると、午後の屋台では、寿司ネタをつまみに酒を飲み、シメには残った酢飯を食うというスタイルも生まれた。
早寿司は現代のフランチャイズ方式と同じで、数百もの屋台が江戸の町中を廻っていた。その商いを考え出した華屋 與兵衛(はなやよへい)は、江戸で三本の指に入る寿司屋になったと太郎は語った。

 話しの流れに合わせながら、龍二は早寿司が乗った皿を客たちへ手渡した。
「今も昔も、金儲けの達人はいたんだな。人間のやることなんて、さほど変わっちゃいないよ。ちなみに、江戸時代の両替商なんて、現代のトレーダーの魁だしね」
そう言った菱田は、注文した純米酒と好物のコハダの早寿司に舌なめずりをした。

 ふいに、新入社員とおぼしき若い客が煮ハマグリの早寿司を頬張りながら、手を上げて訊いた。
「じゃあ、江戸前の寿司ってよく言いますけど、そのルーツは早寿司ってことですか?」

 菱田の純米酒を盃に受けていた銀平は、またもや、口角に泡を飛ばしながら吼えた。
「やっぱり、黙ってらんねえ! 江戸前ってのはよ、江戸の目の前にある海って意味だ! つまり芝浦、品川あたりの東京湾で獲れた魚をネタにした寿司が、江戸前ってんだよ。コハダ、アナゴ、コチ、キス、クルマエビ、貝ならアサリやハマグリ、アオヤギもそうだ。だけどよ、冷蔵庫なんてねえ時代だから、鮮度は保てねえ。そこで、痛まねえように“酢じめ”や“ヅケ”が広がった。そんなネタから、握り寿司は生まれたんだよ。だから……あっ! おっ、思い出したぜ!」

 突然、銀平は講釈を止めて、早寿司をつかんだ。
「こいつは、酒の粕酢で仕込んだシャリだ!」

 嬉々として声を上げる銀平に周囲の客たちはキョトンとしたままだったが、太郎はようやく正鵠を射たといった笑みを口端に浮かべた。
「よし! じゃあ、銀平に主役交代だ」

 黒いエプロンを外す太郎は龍二に目で合図すると、二人して厨房を出て、カウンター席に座った。龍二も鉢巻をほどきながら、おしぼりで手を拭いた。
「どっ、どういうこった?」

 どぎまぎする銀平へ、太郎が客たちにも聞こえるように声を高くして告げた。
「たまには、お前にいいカッコさせてやろうと思ってな。ここから先は、江戸前の魚を支えてきた築地の匠・火野屋のありがたい講義を聴かせてもらうぜぇ」

 龍二も、太郎に純米吟醸を注文しながら言葉を続けた。
「テーマは、さっきの続き“江戸前”でお願いします。その後で、粕酢の話しを僕がします。今夜はお客さんたちとディスカッションしながら、早寿司と日本酒を楽しみましょうよ!」

 気づけば、回りの客たちも銀平に期待するかのように、にこやかな視線を注いでいた。
「銀平、名誉挽回たい」とマリが銀平の背中を押せば、「江戸っ子のべらんめえ調で頼むよ」と菱田は盃を合わせた。
「そ、そこまで頼まれちゃ、しょうがねえな。ちきしょう、こんな日に限って、あすかの野郎はいねえじゃねえか。耳の穴かっぽじって、聴かせてやりたいぜ」

 面目をほどこした銀平は、意気揚々と客席の真ん中へ立ち、咳払いをして講釈を始めた。

 その背中を見つめながら、太郎が店先のガラス窓に指先でOKサインを送った。

 雨粒で曇りかけたガラスの向こうに、銀平を盛り立てる早寿司イベントの本当の仕掛人である、高野あすかの笑顔が揺れていた。

(次回配信 その2に続く)

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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