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Vol.105 花わさび

 都内の花見帰りの人波に、ここ数日、終電間際のメトロが混雑している。大手企業は別として、先の見えない中小企業の景気回復に、憂さを晴らしたいサラリーマンが夜桜の宴に繰り出しているとTVニュースが報じていた。

 そんな日本人特有の“お花見”を連日取材する雑誌記者のジョージは、やつれた顔でカウンター席に座っている。今夜は体臭がいつにもましてキツく、三日間、シャワーを浴びる間もないほど締め切りに追われているとぼやいた。おまけに、上野公園や日比谷公園では盛り上がる花見客の車座に引っ張り込まれ、注がれた酒を飲み干さねばならなかったと、ジョージは顎が外れそうなあくびをした。

 それに臆面もないほど、すっかりポンバル太郎へなじんでいる。
「おいおい、アメリカの日本酒伝道師を自称するわりには、情けねえヤンキーだな。やわらぎ水飲んで、目を覚ましな」

 蔵元から送られた仕込み水の瓶を太郎が傾けると、ジョージはうまそうに一気飲みした。
「でも、太郎さん。紙コップじゃなくて、こんな大きな朱色の盃で飲まされたのですよ。あれはいったい、何ですか?」

 毛深いジョージの両腕が、抱えるようにして輪を作った。聞けば五合ほど入る漆器の赤盃で、人のいいジョージがまんまと座興へはめられたことに太郎は吹き出した。
「それは、サムライが使っていた大盃だ。昔の武士は、それを飲み干して酒豪を自慢したんだよ。今は、そんな呑み方は御法度だけどな」
「オウ! ワッツ、御法度? それにしても眠いです。銀平さんがいれば、うるさくて眠気も飛んでしまうのですが」

 ジョージが虚ろな目をカウンターの空席へ向けた時、玄関の鳴子がにぎやかに響いた。しばらく鳴りやまないのは、ゆっくりと扉を開ける中之島哲男の癖である。
「あらら? 今夜はジョージだけかいな? ちゅうことは、あすかちゃんや龍二君も、今頃は満開の夜桜の下か。まぁ、しゃあない。吉田はん、今夜は静かでっけど、入っておくんなはれ」

 店内を見回して気抜けしたようすの中之島が、後ろに立つ壮年の男性を手招きした。地味な茶色のカーディガンに、ベージュのチノパンツ姿だった。

 吉田と呼ばれた中肉中背の男は、目を見開いて「これは、すごい!」と声をもらした。視線が、杉板の壁に釘づけだった。
「吉野杉の古木ですわ。太郎ちゃんの亡くなったヨメさんが、特にこだわりましてな。わしが、奈良の山主から段取りさせてもらいましてん。どうでっか、あんさんのわさびにふさわしい、ええ店でっしゃろ」

 作務衣を着た中之島の視線が、吉田の提げるビニール袋に止まった。緑色の葉っぱと細長い塊りが透けている。太郎の瞳には、袋の中の小さな花びらも映った。
「それ、沢わさびですね。しかも、花が咲いているのは初めて見ました。一番、辛味のいいサイズ、根は10㎝前後でしょう」

 吉田の相好がくずれ、右手が小さな花と茎を生やしたわさびを袋から取り出した。
「よくご存じですねぇ。いや、恐れ入った。お店といい、御主人といい、さすが中之島さんが太鼓判を押すだけある。この壁、杉板に残っているテルペン成分で店内の匂いが浄化されて、料理や酒の風味を守りますなぁ」

 その言葉に、今度は太郎がまんざらでもなさげに口元をゆるめた。

 中之島は、吉田が伊豆の山奥で沢ワサビの湧き水育成地をこしらえていると紹介した。そして、ぜひ吉田のわさびを太郎に使ってもらいたいと切り出した。

 ふいに、ジョージの声が聞こえた。
「わさびって、クレソンの仲間なのでしょう?」

 吉田がジョージに目をやると、ジャーナリストの虫が頭をもたげたらしく、眠気をふり払いながら会話のメモを取っていた。
「そうですね。西洋わさびと呼ぶくらいですから。クレソンは、明治時代の初めにアメリカから持ち込まれたんですが、日本料理に合わなかったので、当時は普及しなかったのですよ」

 今では北海道、長野県、福島県などの高地で栽培され、粉わさびの原料になっていると吉田が続けた時、ジョージは立ちくらみに襲われたのか足元がよろけた。
「どないしたんや、ジョージ? おまはん、ふらついとるがな」

 とっさに支えた中之島がジョージを席に戻すと、太郎が事情を説明した。

 案の定、中之島もふがいない奴とたしなめると、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「よっしゃ! わしが特効薬を作ったろ。吉田はん、さっそくわさびを使わしてもらいまっせ。太郎ちゃんには、厨房を借りるで」

 言うが早いか、中之島は腕まくりをしてわさびを包丁で切った。わさびの根ではなく、花びらと茎を熱湯に3分くぐらせ、茹で上げ、湯を切った。そして、粗塩を振りかけると蓋をして何度も鍋を振った。
「それは、何をやっているのですか?」
「まあ、細工は流々、仕上げを御覧じろや」

 不審げなジョージに中之島が答えると、意図が分かった吉田と太郎はいたずらっぽい笑みを覗かせた。

 中之島は手を止めると、わさびを小鉢に盛りつけた。ただ、それだけの料理だった。

 ジョージの前に置かれた小鉢から、爽やかなわさびの香りがツンと立ち昇った。
「オウ、鮮やかなグリーン! とても、美味しそうです! 頂きます」

 その色と香りにそそられたジョージの箸が、たっぷりと花わさびを口へ運んだ。途端に「オオウ、シット!」と発して、見る間に涙をあふれさせた。
「どや、目が覚めたかいな。これぞガツンと眠気を吹っ飛ばし、疲れをスパッと取り去る“花わさびの粗塩もみ”や。わしの大阪の割烹でも、疲れてるお客さんへ出したるツマミや。日本酒にも、バッチリ合うんやでぇ」

 胸を張る中之島の前で、ジョージは色白の鼻っ柱を真っ赤に染めた。開いた目も充血している。それでも鍋を回していた理由は何かと身振り手振りで訊ねて、ジョーナリスト魂を覗かせた。
「ほう、見上げた根性やな。鍋を回したのは、花わさびの辛さを充分引き出すためや」

 むせ返るジョージだが、中之島の進めるまま花わさびの粗塩もみを口にすると、しだいに血色は良くなった。そのようすに、太郎が吉田へ訊ねた。
「わさびの良し悪しの決め手って、何が影響するのですか?」
「水ですよ、日本酒と同じく。わさびも軟水が肝心です。無味無臭の軟水で育つからこそ、わさびの辛さと風味が生きる。粘土質の土地に湧くような硬水では、わさびの根に酸素不足の障害をおこしかねません。それに、花も咲きませんよ」

 吉田は、沢わさびが湧き水になじむのに時がかかると言った。水分を含んだ涼しい土地で育てる畑わさびとちがって、体質を湧き水に合わせていくことが大切。そうすることで窒素の量が少なくなり、風味が良くなるのだと解説した。
 太郎は吉田と一緒に花わさびの粗塩もみをつまむと、静岡の日本酒を冷蔵ケースから取り出した。静岡県酵母を使った、キレのいい辛口の純米酒にピッタリだった。
 ようやく落ち着きを取り戻したジョージに、中之島が鼻先をひくつかせて言った。
「ところでジョージ、おまはん、体が臭いな。わさびには消臭殺菌の効果もあるよってな。もう一回、大盛りを食べた方がよさげやなぁ」
 太郎が追い打ちをかけた。
「そうだな、ジョージの心はずいぶん日本になじんできただろ。次は体も、わさびで日本になじませてみるか」
「オウ! もう降参! 勘弁して下さい」
 両手を上げるジョージの前に、容赦なく、緑色の花わさびが盛り付けられていた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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