TOP > ポンバル太郎 > 第116回 ハゼ竿

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Vol.116 ハゼ竿

 まばゆい夕陽が隅田川にかがよい、潮の匂いが遡っていた。

 支流の神田川や小名木川の水面で、流れを上ったボラが群れている。浅草橋のたもとには、出番を待つ屋形船が列をなしていた。

 その光景を取材して来たジョージはポンバル太郎のカウンター席に座ると、鼻先をしきりに動かした。
「オウ! この匂い、さっき浅草橋でかいだのと同じです」

 厨房から漂ってくるのは、胡麻油の匂いだった。いつになく濃いのはおすすめメニュー“ハゼの天麩羅”の売れ行きが良いからで、ジョージが思い出したのは屋形船からの匂いである。
「ジョージ、胡麻油を知らねえのかよ? この季節、生粋の江戸前天麩羅っていやあ、胡麻油で揚げたハゼだぜ」

 冷えた無濾過生原酒を口にする火野銀平が、カウンターに置かれたおすすめメニューを指さした。

 しかし、ハゼが分からないのか、ジョージは困り顔である。

 初夏になると、太郎は火野屋から江戸前のハゼを仕入れる。それを目当てにやって来る客には、浅草や門前仲町に生まれ育った江戸っ子も多い。飲む酒は、多摩や福生の地回り酒である。

 今夜、平 仁兵衛が伴ったのは、深川育ちで大学院教授の中村三郎という男だった。日本の粋文化を研究している中村は平の陶器の愛好家で、江戸小紋の和服を着こなしていた。

 盃の酒は、灘の辛口を傾けている。居丈高な雰囲気のしかめっ面で、白髪まじりの顔は五十歳前後に見えた。 

 江戸前のアナゴやハゼに目がないと言う中村は、ジョージへ自慢げに言った。
「ジョージさん……でしたか。大丈夫ですよ。今の東京人だって、旬のハゼの天麩羅が銀座じゃ高級料理として出されることも知らないんですから」

 中村は揚げたてのハゼに塩だけをつけて、無表情に頬ばった。やにさがった口調に、銀平が顔をしかめた。
「ほう、そうなのですか。私なんて、ハゼは大衆魚のイメージが強いんですけどねぇ。ここに来ると、それが実感できて、なおさら美味しいですよ」

 得意先でもある中村へ気遣う平が、お銚子を酌しながら杉壁を一瞥した。

 その視線の先に、飴色の長い棒が二本掛かっている。釣り竿の先っぽと胴が、二つに分けて飾られていた。古めかしい仕立てのハゼ釣り用の竿だった。
「ほう! こりゃ珍しい。ハゼ竿ですか。かなり年季が入っている」

 仕事柄、骨董品に詳しい中村は、竿へ近づくと目を皿にした。

 動かない中村の背中へ、太郎の声が投げられた。
「たいした竿じゃありません。うちの知り合いの屋形船の女将から譲ってもらった物です。古い倉庫にほったらかしてあったのを、捨てるなら、ハゼの季節の飾りにしようと思いましてね。ほとんど値打ちはありませんよ」

 しかし中村は返事をせず、竿を見つめたままだった。テーブル席の客たちが、訝しげな表情を浮かべた。

 酔いの回った銀平は、気に食わない顔で中村をたしなめた。
「あんたさぁ、大学の先生だか知らねえけどよう、目ん玉は節穴じゃねえか? その竿は二束三文だよ。持ち主だった船宿の女将ってのは、俺の叔母の松子だ。ケチな婆さんでよう。銭になるなら、とっくに売っちまってるさ」

 口の過ぎる銀平を太郎が「よさねえか!」と制した時、玄関扉に吊った木枡が忙しく鳴った。
「やい、銀平! 誰がケチな婆さんだい! もう一度、言ってみな」

 聞き憶えのある声に平がふり向くと、屋形船「お松丸」の女将・松子が鼻息を荒げていた。

 彼女も、ハゼの旬が始まると必ずポンバル太郎へやって来る。鈍色の小袖に羽織姿という老けた身なりだが、七十歳を過ぎても地獄耳は衰えていない。

 降ってわいた騒ぎにも中村は動揺せず、竿の柄元を凝視していた。指を伸ばした先に、色褪せた漆塗りの字が覗いていた。

 “中村源五郎 作”と刻まれた銘に、中村は瞠目したままだった。
「その銘……もしかして、中村さんにご関係ある方ですかな」

 いつの間にか、平が後ろに立っていた。竿を見つめる二人に、銀平をとっちめる松子が気づいて顔を向けた。
「それは、あたしのひい祖父さんが幕末に御武家様からもらったハゼ竿だよ。子どもの頃に聞いた話だけど、お侍のくせに人懐っこくて、舟頭をしてたひい祖父さんとハゼ釣り三昧だったらしいよ」

 松子によると、昔は舟屋にハゼ釣り竿が十数本も残っていて、それはすべて中村源五郎がこしらえた物だった。中村は南町奉行所の同心だったが、もっぱら祐筆が専門で、非番の趣味はハゼ釣りと竿作り。八丁堀の御役人の中でもうだつが上がらず、仕事は場当たりで「ダボハゼ侍」と揶揄されていた。それでも中村はニコニコ笑って、舟頭たちを大事にした。

 九十八歳まで長生きした曽祖父から、松子は中村源五郎の人となりをつぶさに聞いていた。

 その場のなりゆきを知らない松子の話しに、店内が静まり返った。
「ニコニコ笑っちゃあ、いねえよな……見たところ、おっかねえ顔だぜ」

 上目使いする銀平が、中村へ皮肉った。その間に、太郎は松子へ事のしだいを囁いている。

 中村は、小刻みに震える口元で言った。
「私の先祖は、御徒町に住んでいました。町役人だった曽祖父は釣竿作りの名人でもあったと伝わっています。しかし、残念ながら竿の実物が残っていない。せっかく作った釣り竿を人にあげてしまう、鷹揚な人柄だったそうです。つまり、松子さんの御先祖に差し上げたこの竿……まさか、ハゼ竿とは」

 肩を落とす中村に、松子の顔が険しくなった。平は気づいて差し止めかけたが、間に合わなかった。

 立て板に水のように、松子がこきおろした。
「じゃあ、あんたはどんな竿だと思ったんだい? 豪勢な金箔を貼った鯛釣り竿とでも言うのかい。そんな物は殿様や紀文みたいな御大尽の道楽竿で、ちっとも実用品じゃない。舟頭の血を引くあたしにとっちゃ、あんたのひい祖父さんがこさえたハゼ竿の方が、よっぽど上等だ。日本文化の研究者が、聞いて飽きれるね」

 銀平は胸のすく思いだった。それでも高慢な中村は松子へ抗弁すると読んでいたが、意外にも素直だった。
「まさに、おっしゃる通りです……曽祖父に叱られているようだ。机の上だけで研究をやっていると、肝心な日本人の心が見えなくなりますね」

 勝手にハゼ竿を手に取る中村を、太郎はとがめなかった。平は目で太郎へ謝意を送ると、中村の肩に手を置いた。
「ハゼは、下町に愛されてきた魚なんです。深川生まれの中村さんには、庶民に愛される学者スタイルが似合うんじゃないですかねぇ……その竿をしばらく借りて、お宅でもハゼ料理を食べながら、御先祖と問答してみてはいかがですか」

 平が太郎へ目を向けると、そのまま太郎は松子へ視線を流した。
「あたしゃ、かまわないよ。もう、太郎ちゃんへあげた物なんだから……それと中村さん、ひとつ教えてあげるよ。あんたが飲んでる灘の辛口は、江戸時代の庶民には高嶺の花でね。いつもは地回りの並み酒で、釣ったハゼを食ってたのさ」

 目尻をほころばす松子に、店内の客たちの緊張がほぐれた。

 中村が松子へ深々と頭を下げると、銀平も納得した表情で口を開いた。

「ダボハゼは泥底を這って、何でもかんでも食べちまうんだよ。いわば、酸いも甘いも噛み分けた雑魚だ。中村さんの御先祖様ってなぁ、それぐれえ、味のある人だったんじゃねえの。だから官僚的じゃなくて、舟頭たちを大事にしたにちげえねえ」
 胸をそらす銀平を、松子がたしなめた。
「何を分かったふうな口きいてんだい! お前こそ、築地のダボハゼじゃないか。江戸前の本場に生まれ育ってるのに、知恵がないから、いまだにどん底を這い回ってるんだからね。火野屋の御先祖様に申し訳ないよ」
 途端に、銀平は茹でダコのように真っ赤になった。
「ぐ、くっそう! ババぁ……」
「ああ、何だってぇ! もう一度、言ってみな!」
 またぞろ始まった松子と銀平の泥仕合に、中村が初めて顔をほころばせた。
「江戸前のハゼを食べるのは、こんな店でなきゃいけませんねぇ」
 平の破顔一笑が、客たちの笑い声にとけ込んでいた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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