TOP > ポンバル太郎 > 第12回 漆の片口

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Vol.12 漆の片口

 容赦ない真夏の陽射しが足早にやって来たかと思えば、3日前からは、どしゃぶりの梅雨に一変し、東京の街はどこも湿っていた。

 カウンター席で頬杖を突いている出勤前の手越マリは、雨脚の強さと蒸し暑さに銀座へ出るまでの化粧くずれがひどいと、眠そうな眼つきで生貯蔵酒を傾けていた。最近は同伴出勤が減ったせいか、ポンバル太郎での独酌が増えている。
今しがたやって来た火野銀平も築地市場の仕事で長靴の中が蒸れ、水虫が復活する季節だとぼやき、それを聞いた隣席の高野あすかが、しっ!しっ! と追い払うしぐさをした。
テーブル席では、数人の客たちが乾かないスーツの裾を気にしながら、窓の外の雨を恨めしげに眺めていた。

 その時、扉の枡の鳴子が揺れて、平 仁兵衛が入って来た。
ベージュ色の帽子とレインコートが篠突く雨に濡れそぼって、しずくを垂らしている。白い鬚が伸びて、どことなく平の顔色はすぐれなかった。
「おっ、平先生。何だか、お疲れのようですね」

 気をきかせた銀平が作務衣の懐から火野屋の意匠が入った手拭いを取り出したが、平は心ここにあらずのようすだった。
「うちの生徒さんが、ノロウィルスにやられてしまってね……」

 平は、陶芸教室に来ていた筋のいい女性が食中毒で緊急入院し、ほかのメンバーの感染を案じて、今週は講座を休むことにしたのだと語った。
「そう言えば、ここのところ増えてるってニュースを見ました。私は、ウガイと手洗いを励行してますけど!」
平のコートの肩をハンカチで拭いてやりながら、あすかは聞こえよがしな声を発して、銀平の足元を見た。
「な、何でぇ! 水虫とノロは関係ねえだろ! それに毎晩、酒を飲んで体中をアルコール消毒してっから、大丈夫だよ!」

 銀平が負けじと大声を張り上げると、眠気を覚まされたマリが舌打ちして睨みつけた。

 そんな常連の面々を、平はいつものように宥めようとしなかった。
落ち込んでいる平の気持ちを察した太郎は、何かを思いついたらしく、厨房の棚の奥から和紙で包んだ丸い塊を引っぱり出した。
「先生、昔の江戸っ子も、よく食中毒を起こしたそうですよ。当時の水道事情が悪かったせいです」

 太郎がそう言って、念入りに和紙を巻いた包みを開けると、ひと抱えほどあるみごとな朱塗りの片口が現れた。常連客たちも初めてお目にかかる、年季の入った漆塗りの酒器だった。
それを目にするや、あすかは唖然としつつも、ライターらしくスマートフォンで咄嗟に撮影した。何度も響くシャッター音に気づいたテーブル席の客たちが、巨大な片口にどよめいた。
「ふぇ~、立派な片口だねぇ。一升くらい、軽く入りそうだな」
と感嘆する銀平の顔に、ダウンライトを反射する漆器の赤さが移ろっている。
それを洗った太郎が平の前にゆっくり置くと、カウンターの幅を半分ほども占める大きさだった。平の表情が、ふっとほころんだ。
「平先生、石川県のご出身でしたよね。これ、輪島塗りの漆器です。漆器は、昔から日本人とは切っても切れない器。とりわけ東京人には、縁が深い。江戸じゃ酒だけでなく、飲み水も、漆器に入れておく習慣があったそうです」

 例えば、ポンバル太郎の近くを流れる神田川はそもそも神田上水と呼ばれる水道だったし、多摩市が今も使っている玉川上水も江戸の町を支えた水道だった。だが、その水を溜めておく江戸の町の井戸は衛生状態が悪かったと太郎は話した。
「漆器は不思議な力を持ってて、水や酒を腐りにくくする殺菌作用があるそうです。だから今も、その名残りとして、酒を贈る朱塗りの角樽が残ってます」

 平の指先が片口の肌を撫で始めると、太郎は冷蔵ケースから石川県の能登杜氏が仕込んだ純米酒を取り出した。そして一升瓶を開けると、勢いよく片口へ流し込んだ。

 その音にうたた寝をしていたマリが目を覚まし、目の前にある朱色の片口に驚いた。
「うっ、うまそうたい! 今日は、何かのお祝いね?」

 唐突な熊本弁に銀平が思わず吹き出し、「どうぞ! どうぞ!」とマリに片口をすすめた。

 途端に笑いが巻き起こり沈んでいた空気が一掃されると、メモに没頭しているあすかが左手を上げて訊いた。
「太郎さん、じゃあ正月のおせちを漆塗りの重箱に詰めておくのは、日持ちさせるためだったの? 私はてっきり金箔や漆の色で、正月らしく見栄えがするからだと思ってた」

 太郎が答える前に、顔色の戻った平が言った。
「もちろん、それもあります。微に入り細をうがつ錦絵のような輪島塗の美しさは、加賀文化の矜持というところです。太郎さん、私への気遣いをありがとう。しかし、奇遇ですよ……実は、私の親父は輪島塗の職人だったんです。子どもの頃、実家にもこんな朱塗りの片口がありました。とても懐かしいなぁ」

 片口の酒に映る平の顔は、いつの間にか好々爺のようになごんでいた。
「えっ! こりゃぁ、恐れ入りました。それじゃ釈迦に説法でしたね」

 太郎の語末がはっきり響くぐらい、驚いた周囲の面々からはひと言も出なかった。
「ノンベな親父でしてねぇ。シラフの時は一流の漆器職人でしたが、酔うと豹変して、おふくろに苦労ばっかりかけてました。そのせいで私は親父を憎み、漆器ではなく陶器の道を選び、結局は美術教師で終わってしまいました。そんな親父を一つだけ誇れるのは、輪島の小学校の給食で漆塗りの箸や器を使えるようにしたことです」

 遠い目をして問わず語る平の前に、太郎は片口と揃いになっている朱塗りの盃を置いた。それを見ていたあすかが片口を抱くと、音も立てず能登の酒を注いだ。
艶やかな漆塗りの肌を、酒が滑るように流れた。

「私は、そんなお父さんの職人魂が平先生を陶芸家にしたんだと思いますよ」

 あすかの言葉に、太郎だけでなく店内の誰もが頷いた。
「陶芸家だなんて……しがない焼き物教室の講師です。でも、作家として成就したい夢だけは、これからも失わずに頑張りますよ」
しんみりとした雰囲気の中、突然と銀平が咳払いをした。

「おっほん! ちなみに、火野屋にも漆塗りの器が残ってる。俺の祖父さんの火野銀次郎が、さばいた魚を届けるのに使った半切り桶なんだ。時には水を張って活きた鯛を泳がせ、本所や深川の料理屋に運んだらしいぜ。きっと漆の効果で、鯛も水も長持ちしたんじゃねえかな」

 片口の酒をおかわりしてほろ酔いのマリが、小さなおくびを洩らしながら銀平にからんだ。
「けど、あんたの場合は足の水虫を殺菌せんといかんけん、さっさとその輪島塗りの桶を、和風バケツにでも変えてもらった方がよかよ」
「もう! そこへ話しを戻すんじゃねぇ!」

 漆の朱色よりも真っ赤になる銀平の顔を、全員の笑い声が包んでいた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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