TOP > ポンバル太郎 > 第125回 アナゴ飯

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Vol.125 アナゴ飯

 盆休みの疲れを引きずっている顔が、夕暮れの通りに行き交っていた。残暑どころか、うだるような暑さが夜になっても都心にこもっている。

 スタミナ対策に千住や小岩のヤキトンとホッピーが人気を呼んでいると、ポンバル太郎のテーブル席の客たちが噂をしていた。
「ヤキトンねぇ。私の腹には、いささか重たい。しかし、熱中症予防に豚肉のビタミンBは欲しいですねぇ」

 カウンター席で山廃純米酒の盃をなめる平 仁兵衛の顔は、疲れ気味である。
「平先生、魚だって精力がつくのはありますぜ。ウナギ、ハモ、フグ。まあ、みんな高級魚だけどさ。面目ねえが、どれも今夜のポンバル太郎には入ってねえや」

 隣りでお銚子を傾ける火野銀平が頭を下げると、額から球の汗が滑り落ちた。厨房から顔を覗かせた太郎も、手拭いで額を拭きながら平に声をかけた。
「じゃあ、アナゴ飯でも作りましょうか」
「おおっ! それは、そそられますねぇ。アナゴもウナギの仲間ですねぇ」
 と平が両手を打つと、カウンター席の奥で独酌する男が頭をもたげた。五十路前後に見える表情が、ふっとほころんだ。広島の純米酒を冷やで飲んでいる。

 煮切り醤油の匂いがして、丼によそったアナゴ飯がカウンターに置かれると、平が満面の笑みを浮かべた。

 カウンター席の男が唾を呑んで、身を乗り出した。もちろん江戸前のアナゴで、火野屋が納めた羽田沖で揚がった上物である。
「目方も極上、太過ぎねえのがいいんでさ。江戸前のアナゴ飯は、皮目に煮切りのタレを塗って食うのが粋ですぜ」

 銀平は聞こえよがしに声を高め、アナゴを自慢した。だが、男はアナゴ飯にがっかりした顔で腰を椅子に戻した。
「そりゃ、アナゴ飯やないのう」

 男のつぶやきに平の箸が止まると、銀平は顔色を変えた。ほころんでいた赤い表情が、真顔に戻った。
「おい、あんた。太郎さんのアナゴ飯にケチをつけようてえのかい」
「いや……そうやない。わしの故郷のアナゴ飯とは、ちがうけえ」

 男の強い訛りに、銀平が顔をしかめた。聞き慣れない口調にテーブル席の客たちも小首をかしげると、太郎は行平鍋を手にしながら耳を澄ませた。

 平が、男の答えに頷きながら口を開いた。
「あなた、広島の方ですね。なるほど、地元のアナゴ飯とは少しちがっていますなぁ。広島風はアナゴの切り身に甘い醤油を薄く塗って、たっぷり乗せたセリの香りがいいですよねぇ。その旨口の純米酒によく合います」

 目の前のアナゴ飯は銚子の醤油を使った煮切りで、辛そうな濃口の風味が漂っていた。
「あんた、知っとるんかの? あの甘いタレにセリの香りがからまると、うまいんじゃ!」

 途端に男が瞳を輝かせると、平は若かりし頃に広島の宮島で食べたアナゴ飯を語った。

 広島のアナゴ飯は、江戸前とちがってぎっしりと敷き詰めたアナゴの身に薄く煮切り醤油を塗り、薬味はセリを使う。アナゴそのものも広島では白焼きで食べるのが常で、あくまでタレは隠し味だと平の解説には熱がこもっていた。

 感心するテーブル客の後ろから、聞き慣れた声がした。
「珍しいですね、平先生がそこまで詳しくお話されるのって。それに、ほら! 奇遇でしょ!」

 いつの間に現れたのか、平の後ろで高野あすかが手土産らしき紙袋を提げていた。袋には、“安芸屋のアナゴ飯”の筆字とイラストがあった。

 あすかは宮島の取材帰りだと、太郎から受け取った冷たいおしぼりで手首の汗を拭った。

 袋の絵柄を訝しがる銀平とは対照的に、カウンター席の男が目を大きく見開いた。
「おお、それはうちの兄貴が獲っちょるアナゴじゃ!」
「あら、そうなんですか!? お兄さんって、ひょっとして安芸屋さんへ出入りしてる漁師の三浦信一さんですか? そう言えば、似てらっしゃいますね」

 男が素朴な笑みで頷くと、あすかはまじまじと見つめて隣に座った。
「安芸屋さんにアナゴを卸している三浦さんも、取材させてもらいました。船にも乗せて頂いたんですよ。お世話になりまして、ありがとうございました」

 三浦はあすかの匂いとスタイルの良さにどぎまぎとしたが、我に返ると純米酒のグラスをカウンターに置き、重たげな口に変わった。
「……兄貴に逢うたんですか? 元気にしよったかのう?」
「それが、けっこう大変みたいです。奥様が去年に腰を悪くされて、独りではえ縄漁をされてます。以前は弟の信二さんと兄弟船で漁をしてたっておっしゃってましたが……それが、あなたですか?」

 あすかの問いかけに、三浦は無言だった。沈んだ雰囲気に銀平が咳払いをすると、三浦は伏し目がちに、くぐもった声を発した。
「15年前に兄弟喧嘩をして、わしゃ、陸に上がったんじゃ。あれからは顔を合わしとらん。わしは今、安芸を離れて尾道の海産物会社におる。毎週、東京の催事に来とるんじゃ」

 三浦が船を降りた理由は、兄にアナゴ漁だけでなく牡蠣の養殖も手がけようと提案したことが発端だった。

 祖父の代からアナゴ一筋でやって来た三浦家だが、年々、漁獲は減っていた。地元の需要も少なくなり、信二は東京への養殖牡蠣の販売を考えたが、信一は首をたてに振らなかった。
「二兎追う者は、一兎も得んぞ」

 昔気質の信一は背中でそう答えるだけだったと、三浦は問わず語った。

 しんみりとする店内に、太郎の包丁の音だけが聞こえていた。

 口を開きかけた銀平を、平の手酌が止めた。三浦と同じ業界の銀平は今しがたまでの態度を一変させて、胸の内を斟酌していた。

 平の穏やかなまなざしが、もう少し待てと諭していた。三浦の兄と逢っていたあすかの言葉が彼を慰めるはずと、平は思った。

 その意を察したあすかが、三浦の手元に置く純米酒を見つめながら言った。
「取材した夜、安芸屋さんの経営する割烹にご主人から誘われて、信一さんも一緒に食事をされしました。それと同じ地酒を、美味しそうに召し上がってた……しばらく逢ってない弟と飲みたいとも、おっしゃってました」

 それを耳にする三浦は、はえ縄を巻上げるしぐさだろうか、曲げた指先を無意識に動かしていた。苦い表情が、口元に深い皺を刻んでいた。

 堪え性のない銀平は、辛抱し切れずに叫んだ。
「ええい! つまらねえ意地張ってねえで、この酒を手土産に逢ってきたらどうなんだよ。まったくよう、俺にゃあちこちに漁師の知り合いはいるが、どいつも強情なのばっかりだぜ」
「いや……わしは家業を捨てた漁師じゃけえ、今さら港には近づけやせん」

 唇を噛む三浦が、指先の動きを止めて拳を握った。

 あすかも、銀平と同じ気持ちを三浦へぶつけた。
「そんなのおかしいです。兄弟なんだから、お酒を酌み交わせば、きっと元の鞘に収まるはず。安芸屋さんもおっしゃってました。三浦さんの獲るアナゴは、兄弟で競ってた頃の方が旨かったって。一番いいアナゴしか獲らないことに、お互い妥協がなかったって」

 店内の客たちが耳を傾ける中、あすかがバッグから取材ノートを取り出した。開いたページにはインタビューした安芸屋のコメントのほかに、漁協の手拭いを首に巻いた男の絵がスケッチされていた。笑っている信一だった。

 それを覗き込む三浦の声が震えた。
「兄貴……ずいぶん髪の毛が薄うなったのう。わしも、目や耳がすっかり衰えとるわ。陸に上がったら、さっぱりいけんのう」

 兄に話しかけるかのように、三浦はスケッチ画を指でなぞった。

 ふと、煮切り醤油の香りが漂った。平と銀平は、さっきの煮切り醤油よりも薄い匂いを感じた。

 三浦が頭をもたげると、しばらく厨房にこもっていた太郎の両手にアナゴの小さな切り身を並べた丼が乗っていた。刻まれたセリの緑色が、潤んだ三浦の瞳に揺れている。

「アナゴって名は、海底の巣穴に潜るから“穴ごもり”ってのに由来してるそうです。だからって、アナゴ漁師だった三浦さんが内にこもってちゃダメでしょう。これを食っちまえば、お兄さんと話す勇気が出ますよ。広島へ戻った足で、そのまま逢いに行けばいいじゃないですか」
「わざわざ、作ってくれたんかい……大将、ありがとうよ」
 せりの匂いをかいだ三浦が頭を下げると、太郎があすかに視線を向けた。
「礼なら、この高野あすかに言ってください。彼女がいたから、今夜の縁はつながったんですよ」
 鼻先を湿らせた三浦が、あすかに向かって両手を合わせた。太郎に褒められたあすかの顔は、いつになく赤くなっていた。
「ちぇ! 穴子とは正反対で、どこにでも出しゃばる奴だぜ」
 あすかへぼやく銀平だったが、その目尻はうれしげだった。
「いいメニューが、また一つ増えましたねぇ。それじゃ、私も頂きますかねぇ」
 平の声をきっかけにして、アナゴ飯を注文する客たちの声が聞こえた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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