TOP > ポンバル太郎 > 第158回 櫂棒

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Vol.158 櫂棒

 若葉のまばゆい木洩れ日が、青山や原宿のカフェテラスに春の装いを呼び込んでいた。夕暮れを迎えても風は生暖かく、表参道にはスプリングコートを脱ぐ女性たちが目立つ。

 桜も終わり、春本番。ポンバル太郎の通りには「生貯蔵酒、冷えてます」と貼り出す居酒屋があった。そろそろ全国新酒鑑評会の大吟醸も、話題になる頃である。
「今年は、また東北勢の独壇場か、それとも西国の広島あたりが雪辱するか。そろそろ変化があってもええ気がするな」
 グラスを傾ける中之島哲男の言葉に平 仁兵衛も頷きつつ
「古豪の意地を見せて欲しいもんです」
 と懐かしい銘柄の広島の大吟醸を飲み干した。一升瓶には、「安芸自慢」のレッテルが張ってある。二人とも春の陽気のせいか、常温酒に変わっていた。

「あら、そうやすやすとはタイトルを譲れませんわよ。こっちは、みちのく復興の期待も背負ってんだもん」
 冷蔵ケースから福島県の大吟醸を取り出す高野あすかが、中之島の前の一升瓶を押しやった。最近人気の福島酒に、ここ十年、鳴かず飛ばずの安芸自慢は肩身が狭そうだった。
「う、ううむ……」と苦い顔をする中之島だが、蔵元娘のあすかが相手では分が悪い。

 引き下がる中之島の肩越しに、カウンターの隅から声が飛んだ。
「ねえちゃん、悪いがのう、その呉の酒をなめちゃいけん。今年は、必ず巻き返しよるぜ」
 箸を左手で動かすその男は五十歳半ばと思えたが、広島訛りがキツかった。
 左利きかとあすかは目を止めたが、次の瞬間、ダラリと下がった男の右手を凝視した。それを追った中之島や平も声を失くした。男の右腕は、義手だった。

 静まるカウンター席で、男に焼き牡蠣を差し出す太郎が口を開いた。
「呉の安芸自慢で蔵の頭(かしら)をしていた、世良 聡さんです。交通事故で昨年右腕を怪我されて、酒造りは引退したけど、今は営業で頑張ってる方です。昔、俺が酒匠の駆け出しの頃、ハル子と蔵へ勉強にお邪魔してお世話になったんですよ」
 太郎は、世良が一年ぶりに復帰した祝いも兼ねて呉から招き、安芸自慢の酒を仕入れたと紹介した。

 かつて世良が任されていた頭とは杜氏の補佐役で、酒造現場の動きをすべて差配する、いわばディレクターである。蔵人として脂ののった世良は杜氏を目前にしていただろうし、断腸の思いで夢を諦めたにちがいないと、太郎の声を耳にした店内の客たちも表情を曇らせた。
「あのう……今年の鑑評会出品酒は、まだ出てないのに、そうまで断言できる自信ってなんですか?」
 ぶっきらぼうな問いかけだったが、あすかの人となりを読んだのか、世良は「あんた、蔵元の人じゃろう」とつぶやいて、笑みを浮かべた。驕った雰囲気は微塵も見せず、むしろ寂しげな口調で続けた。
「呉の山の中にある安芸自慢の出荷量は、年間300石じゃ。つまり、一升瓶にして3万本ちゅう少なさじゃ。ほじゃけえ、大きな酒造メーカーみたいなIT設備なんぞ、ありゃあせん。空調も自然の気温で調整しちょる。じゃから、品質や味わいをボタン一つで整えることはでけん。あくまで、蔵人の経験と技量しだいじゃ。その一つである、櫂棒の使い方をようやく若い奴らが身につけよったのよ」

 世良はさらに続けて、櫂棒の使い方を説いた。
 モロミの三段仕込みには、棒を押し込んで麹米を溶かす方法や、溶けてゆるくなったら引き上げながら混ぜる方法。タンクの中で発酵を促したり、成長を抑えるにも、さまざまな櫂棒の使い方があると力説した。かつての名杜氏は、櫂棒一本で酒の味を変えることができた。
 それには、生きている酒のモロミを良い状態へ導き、育てる親心が必要で、決して人が勝手な押し付けの操作をしてはいけないのだと語った。
 今、ようやく安芸自慢の若い蔵人たちは、頭であった自分の教えを会得したと世良の声音は嬉しげだったが、右腕をさする横顔には、ふっと口惜しさが浮かんでいた。

 あすかの頬が、いくぶん紅潮していた。蔵元であった自身の思いも込み上げているのだろうと見て取った平が、安芸自慢の一升瓶へ手を伸ばしながら言った。
「なるほど、櫂棒ですか。何の変哲もない棒みたいですが、ちゃんとした技があるんですねぇ。やはり、日本の匠はすばらしいですねぇ」
「まあ、俺はもう、櫂棒を使いこなすことはできんけぇ……この右腕の覚えておったことは、全部、若ぇ者に教えたけぇのう」
 左手で冷酒グラスを飲み干した世良へ、中之島が一升瓶を手にして近寄った。
「いや、まだ教えることはおまっせ、世良はん。櫂棒の使い方だけやなしに、造る酒のうまさを飲み手に伝えるのも蔵人の修行や。あんさんは不遇にも怪我を負うたが、現場を卒業して、より飲む人へ近づいたやないか。現場を知り尽くして、お客さんも知り尽くす。それこそ、まさに蔵元に必要なディレクターやないか」
 中之島が注ぐ酒の音とともに、世良の鼻梁は赤くなった。無言でグラスに受ける世良の左手が、小刻みに震えた。

 あふれる涙をこぼすまいと世良が上を向いた時、目前に太郎が一枚の和紙を広げた。色褪せた和紙には、筆書きで櫂棒の使い方が数多く指南されていた。
「お、おう……そりゃあ、わしが書いたもんじゃけぇ。いったい、どうして?」
「お忘れですか。7年前、ハル子と安芸自慢へ伺った帰りに、世良さんから頂いたうちの宝物ですよ。亡くなる前のハル子に、言われてたんです。いつかこれを額装して、うちの店へ飾って欲しいと……ようやく、その日が来ましたよ。だから世良さんも、またポンバル太郎へいらして、櫂棒のこと、頭の仕事のことを語ってください」

 世良の瞳から、大粒の涙がこぼれた。途端に、和紙を濡らさないよう、あすかの手のひらがそれを受け止めた。
「私も、世良さんのお話し、もっと聞きたいです」
 あすかの声音も、心なしか震えていた。
「それじゃあ、今年の新酒鑑評会の金賞祝いは、ポンバル太郎で盛大にやりましょうかねぇ。安芸自慢の復活バンザイで」
 平の呼びかけに、店内の客たちから拍手が起こった。
「ついでに、世良さんの櫂棒も店に飾ってみたらどうや! わしが、据え付け工事したるでぇ」
 中之島が腕まくりすると、世良は照れくさげに左手を持ち上げ、薄白くなっている頭を掻いた。
 客席から続々と注文される安芸自慢に、一升瓶はあっという間に空っぽになっていた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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