TOP > ポンバル太郎 > 第172回 瓦灯(がとう)

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Vol.172 瓦灯(がとう)

 群馬方面から忽然とやって来た黒雲が、夕刻の都心に飴玉ほどの雹(ひょう)を叩きつけた。予想もつかない荒れ模様の天気に、首都高速道路は大渋滞に陥っている。
 たやすく傘を突き破る氷の塊は、帰宅中のビジネスマンたちを地下道に閉じ込め、OLを脅えさせた。タクシードライバーは、ヘタをすれば降りる客に重傷を負わせかねないと、すさまじい音を立てるボンネットを恨めしげに見つめていた。

 立て続けにスカイツリーに落ちた雷の轟音が、ポンバル太郎の窓ガラスをビリビリと震わせた。雹を避ける通りの人影は、クモの子を散らすように周囲の店へ飛び込んだ。
「何だってんだ、この天気はよう! よりによって太郎さんの今年初の鱧切りの日に、縁起でもねえ! 手元が狂うじゃねえか」
 カウンター席で吠える赤ら顔の火野銀平をよそに、横並ぶ平 仁兵衛、高野あすかの二人は太郎の手元を見つめている。
 鱧の骨切り包丁が、シャ、シャと軽やかな音を響かせていた。その後ろでは、右近龍二がスマホを構えている。それは、太郎が一年前に堺の宗久庵の鱧切り包丁をもらった料理人・村田アキラとの約束だった。どれほど上達したかを、村田へ太郎の骨切りの動画をスマホでメールし、確かめてもらうことになっている。

「よし! 仕上がったぜ」
 太郎が鱧切り包丁を置いた瞬間、これまでにない大きな雷鳴と稲妻がポンバル太郎の上空を襲った。店ごと揺さぶられる衝撃だった。
「骨切り、ジャスト60秒……えっ? あれれ、このスマホ、おかしいぞ!」
 龍二のスマホ画面は、いきなり真っ黒になった。すると、メール中の店内の客たちも「お、おい! 俺のも変だよ!」「いきなり、サーバーと接続が切れちゃったよ」と口々に発した。
 起こっている状況が太郎には分からないが、動かなくなったタブレット端末にうろたえるあすかからも、ほとんどの電子機器がおかしくなっていることを察した。

「お、おい! 俺のガラケーもダメだ。ひょっとして、前にアメリカで起きたみてえな磁気嵐かよ?」
 銀平が折り畳み式の古いガラケーを開いた途端、今度は店の電灯が消えた。暗闇にどよめく客たちに「皆さん、落ち着いてください!」と二階から剣の声が響いた。
「ふむ。大のおとなが、剣君に顔負けですねぇ。ジタバタしても仕方がありません。電気が戻るまで、しばらく待ちましょう。ただの停電かもしれませんし……それにしても、昭和の半ばまでは、こんなことはざらにありましたよ。人間は、便利になりすぎるとダメですねぇ」
 暗闇の中、平の声に相槌を打ついくつかの陰がうっすらと見えた。それを照らし出すのは、太郎が用意した百目蝋燭である。

 揺れる客席のシルエットと外の雷鳴が、怪しい雰囲気を演出した。
「平 先生。こんな時になんですが、蝋燭を使うといつもの酒や料理も味が変わりそうですね。でも昔の江戸っ子は、こんな中で酒と肴を楽しんでたわけでしょう?」
 長くて太い蝋燭の灯りが、太郎の嬉しげな表情を闇に映し出した。
「いやいや、蝋燭なんて高価な灯りですよ。幕末の庶民は菜種油の行灯でしたけど、江戸中期までは瓦灯(がとう)といって、陶器の小さな器に鰯から作った魚油を入れて、それにイグサの芯を漬けて小さな灯りを点けるだけでした。だから、暗くならない内に仕事を終えて家に帰り、西の空がまだ明るい暮れ七つ(午後4時)頃には夕餉をすませたんです……太郎さん、天婦羅に使う菜種油はありますか?」
 言い終えた平がぬる燗の盃をズズッと飲み干す音に、銀平と龍二、あすかは好奇心を掻き立てられた。

 平は空けた盃を太郎に差し出すと、菜種油を注がせ、その中に割り箸の袋で作ったこよりを漬けた。
「なるほど! 即興の瓦灯ってわけですね。おもしろい」
 龍二の声に背後の客たちの影が揺れて、前のめりになった。外の雷鳴と閃光は、ようやく静まってきた。
 瓦灯の芯に太郎が着火器を点すと、ほのかな光が浮かび上がった。すると、龍二が百目蝋燭の灯りを吹き消した。店内はさらに薄暗くなり、客たちは藪にらみしながら、なりゆきを見守った。誰かのグラスを倒す音がした。

「さて、ここで皆さんに質問です。こんな薄暗い中で、はたして酒と肴を美味しいと感じますか?」
 平が顔を向けた銀平は、手元のイサキの塩焼きをつつきながら、
「い、言われてみりゃぁ、何を食ってんだか分からねえ。料理の匂いと味つけで、おおよそ判断するしかねえな」
 暗がりの中で、銀平のギョロリとした白い目と歯が龍二とあすかを頷かせた。テーブル席の客たちも、自分が注文した料理にクンクンと鼻先を動かしている。
「その通りですねぇ。昔の江戸っ子は、嗅覚や味覚がそれだけ鋭かったわけです。それに、食材も江戸前の新鮮な物ばかりでした。現代人の私たちの方が、ずっと味オンチだと思いませんか?」
 平は、もう一度、百目蝋燭を点けると手にしたまま食器棚へ近づいた。そして自前の盃をいくつか取り出し、瓦灯にしてくれと太郎に頼んだ。むろん、店内の客席へ配るためだった。

 あちこちの卓上に蛍火のような灯りが揺れると、あすかが太郎に耳打ちをして、客席へ動いた。太郎はグラスに江戸時代の酒を復刻した味醂のような甘い酒を注ぎ、あすかは客の数だけふるまった。
「暗い夜でも、感覚のいい江戸っ子は利き酒も上手かったはず。この復刻酒で、そんな気分になってみましょうよ」
 あすかの誘いを、誰も拒まなかった。
 もう暗がりに不満を漏らす声は、聞こえなかった。むしろ、長引く停電にあきらめ顔だった客たちも、いつしか闇の中の晩酌に江戸ロマンを馳せていた。

 カウンター席に横座るあすか、龍二、平が、それぞれに甘い酒を利き酒した。冷房が切れたせいで、店内の温度はいささか上がり、三人とも額に汗を浮かせていた。
「江戸時代、エアコンはなかったから、こんな蒸し暑さの中で飲んだわけだ。でも、なぜだか瓦灯の前だと涼しく感じます。ねぇ、銀平さん?」
 左隣りにいるはずの銀平に、龍二が声をかけた。だが、それに答えたのは、冷蔵ケースから瓶を取り出す音だった。
 その途端、電灯に光が戻って、店内がパッと明るくなった。あまりのまぶしさに、客たちがいっせいに顔をしかめた。
「し、しまった!」
 冷蔵ケースから冷えている大吟醸を取り出す銀平の姿が、店内照明で露わになった。
 あすかや龍二の飽きれ顔に笑いで誤魔化そうとする銀平へ、玄関から罵声が飛んだ。
「何やってんだい! このスットコドッコイ。まったく、あんたは火野屋の恥さらしだね。うちのご先祖様が、墓場の陰で泣いてるよ!」

 あすかたちが揃って振り向くと、屋形船の女将である松子が甥っ子である銀平の醜態に嘆きながら入って来た。ポンバル太郎へ向かっていた松子だが、停電で駅に小一時間も足止めを食い、ようやくたどり着いたのだと平の隣へ座り込んだ。
「チッ! まぁた、疫病神が来やがったよ」
 苦虫をつぶす銀平の禿頭を、松子は本気でひっぱたいた。大きな音に驚く客たちをよそに、松子は真顔で言った。
「油には、火がつきものだ。火野屋の苗字はね、そもそも日本橋小網町で上方からの菜種油や魚油を商っていたご先祖様に感謝して、おまえの曽祖父、つまり、あたしの祖父さんが明治時代に考えたんだよ! 所詮、うちのご先祖は名なしのゴンベエだったけど、魚油を扱ったからこそ鰯を売り買いする商いに手を広げて、その後、日本橋の魚河岸で成功したわけだ。おまえ、そんなことも知らないのかい!」
 今にも噛みつきそうだった銀平は、松子の話に気を削がれた。
「へ?……そりゃ、初耳だよ。銀次郎の祖父さんだって俺には何も……あっ、だから“鰯を笑う奴ぁ、築地で生きちゃいけねえ”てぇのが、祖父さんの口癖だったのか」

 松子が瓦灯を手元に引き寄せ、問わず語った。
「あんたの曽祖父はねぇ、鰯の魚油を灯しながら晩酌をしてたらしいよ。魚油ってのは、かなり匂いが生臭かったらしい。だから、ごちそうを前にしても、たいていの人は興醒めした。でも、質素倹約な火野屋のご先祖は、それが当たり前だった。だから、あんたも、あたしも、魚臭さには強い血筋なんだよ。今夜の瓦灯の試みには、あんたが一番、ありがたさや懐かしさを感じなきゃいけないね」
 瓦灯の芯の炎が、松子の語気に大きく揺れた。
「……ちげえねえ。松子の叔母さん、ありがとよ。太郎さん。俺にも、その甘い酒を注いでくれねえか」
「もう、置いてあるぜ」
 銀平の前の盃を、トロリとした味醂のような酒が満たしていた。
 静まる店内の空気に、平がつぶやいた。
「もう一度、停電しませんかねぇ……なんちゃって」
 すると、二階から降りていた剣が照明のスイッチを切り、店内はふたたび暗闇に包まれた。
 客たちが苦笑する中、揺れる瓦灯はノスタルジックな酒の味をしみじみと伝えていた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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