TOP > ポンバル太郎 > 第189回 ムツゴロウ

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Vol.189 ムツゴロウ

 木枯らし一番が吹き荒れ、神宮外苑や上野公園の近くには落ち葉がうずたかく積もっていた。それは夕刻の驟雨に濡れたせいでベッタリと歩道に貼り付き、帰宅を急ぐ人々の靴を滑らせている。
 ポンバル太郎の通りには、ほろ酔いで強い寒風にあおられて、みごとな尻餅をつく年配ビジネスマンもいた。

 「あぶねえなぁ。下手すりゃ、骨折しちまうぜ。歳食ってんだから、なかなか治らねえぞ。まったく、冷や汗物じゃねえかよう」
 そう言う火野銀平も、よそ見をしてる場合ではない。ポンバル太郎の玄関に着くやいなや、激しく開いた扉にのけぞり、足元がよろめいた。
「あ、危ねえじゃねえか! 気を付けろい!」
 唾を飛ばす銀平の前に立っているのは、興奮気味のジョージだった。
「あっ、ゴメンナサーイ、銀平さん。でも、私、御使いで急いでます。長崎、長崎!」
 心ここに在らずといったようすのジョージは銀平を突き飛ばしかねない勢いで店を出ると、意味不明な「長崎」を繰り返しながら駅前へ駆けて行った。

 「な、なんでぇ、ジョージの野郎。血相変えて……長崎が、どうしたってんだ?」
 怪訝な顔で店内を振り返った銀平の目に、難しい表情を並べているカウンター席の平 仁衛、右近龍二が映った。銀平が近寄ると二人は盃を手にしたままで、視線の先にひょうきんな顔の魚が横たわっていた。
「おっ! それ、ムツゴロウかよ? 珍しいじゃねえか。だけど、太郎さんはこいつをどうやって仕入れたんだ? かなりの珍魚でよう、有明海周辺にしか売ってねえぞ……あっ! さっきジョージが繰り返してた長崎ってえのは、こいつのせいかよ」
 俎板の上でギョロ目を剥いているムツゴロウに、腑に落ちたとばかり銀平が手を叩いた。その手のひらに、厨房から現れた太郎が一枚のハガキを渡した。
「ムツゴロウは、俺も初めてだ。もちろん、俺が注文したわけじゃねえ。有明海がご自慢の食い道楽な女傑が、わざわざ送ってくれたんだよ。ご丁寧に、クール便でな。だけど、どう料理すりゃいいんだか、平先生でも知らねえてぇから、龍ちゃんにネット検索してもらってんだよ」
 太郎が声を投げた龍二はクッキングサイトを覗いているが、さすがに載ってるレシピは少ないようだった。それを察する銀平は、太郎から受け取ったハガキに飽きれ顔で言った。
「しかし、マリさんも物好きだねぇ……本人も、今夜来るからって書いてるじゃねえか」
 ハガキの差出人は、銀座のbar・手毬のママである手越マリだった。つまり九州に帰省していたマリが、珍味のムツゴロウを太郎へ送ったのだ。

「ちょっと泥臭さもありますねえ、これは生の刺身じゃ厳しいですなぁ…それにしても、ムツゴロウって名前は、何が由来なんでしょうかね」
 鼻先を動かす平の声にテーブル席の客たちはカウンターを覗き込み、ムツゴロウのように目を丸めた。その時、カウンター席の端っこで独酌していた四十歳前後の男が、もどかしげに口を開いた。手にする盃の中身は、長崎の銘酒だった。
「それは、長崎弁の“脂っこい”を言う“むつごい”と、ハゼ科の“ごり(鮴)”が合わさった名前です。有明海じゃ見た目の悪い魚ほど、うまかです。ムツゴロウだけやなく、ワラスボやクッゾコといろいろおって、みんな煮つけが格別です……ばってん、諫早湾の干拓で不漁が続いとります。有明海の漁師は、やるもんじゃなかです」
 九州訛りの混じった初顔の男は、表情を暗くした。とりわけ龍二の気を引いたのは、男は火野屋が納めた江戸前のタイやヒラメの刺身を注文しながら、鞄から自前の醤油瓶を取り出したことだった。
 それが地醤油であることは、龍二だけでなく平も男の訛りに直感していた。
「あのう……ムツゴロウの煮つけも、その醤油を使うのですか?」
 龍二が訊くと、はにかむ男は冷酒グラスを飲み干して
「そうです。あっちじゃ、獲れたらすぐに素焼きにします。私も久しぶりに生のムツゴロウを目にしたばってん、クール便とは驚きたい。これを送った人は、かなりのツウですばい」
と笑みを浮かべ、問わず語りを続けた。

 自分は諫早湾に面した漁港の出身で、名前も有明 源次と言う。先祖代々、干潟の漁師で、父はムツゴロウを引っ掛けて釣る漁師だった。名人と称えられ、NHKの番組にも紹介され、上京すれば銀座にもやって来るほどだった。そんな父に連れられて、幼い頃は泥まみれになっていた頃が懐かしい。
 かつて諫早湾は、ムツゴロウの国内最大の生息地だった。だが、国の農地干拓で巨大な水門が作られ、海水の流入が止まり、干潟は乾燥した。そのせいで、大雨が降れば淡水化が進み、干潟の土壌は変わり、ムツゴロウなどの生物が死滅している。さらには干潟から悪臭も漂っていると、有明は遠い目をした。

 静まった客たちが俎板のムツゴロウから有明に視線を移す中、平がつぶやいた。
「忘れかけていましたねぇ、諫早湾のこと。干拓によって農家と漁師が対立しているそうですが……昔は干潟の自然の摂理に従って、人と環境が調和していたのに、悲しいですねぇ」
 それを受けて、有明が盃を飲み干した。
「ですから、老いた父は漁師を捨てました。ムツゴロウを釣る道具も、一切合財、父のファンだった人たちにあげてしもたとです。今は、田舎で隠遁生活をしとります。私は東京へ来て、もう15年。ムツゴロウを食う機会もない。いや、あったとしても、やっぱり地元で料理した物でないと食えんけん」
 有明が、グッタリしているムツゴロウにため息を吐いた。
 頷く客たちから「地産地消ってわけだ」と聞こえた時、太郎が平然と切り返した。

「ところが、有明さん。これを送ってくれた人は銀座のママさんで、九州の出身です。旨味のある長崎の本醸造で洗い流せば、泥臭さも消えると書いてます。それに、1日クール便で熟成した身は、現地のすぐ干した物より美味しくなるって寸法です」
 聞いた途端、銀平がパチンと指を鳴らした。
「あっ! ジョージは、駅前の酒屋に走ったのか!」
 平と龍二も、今しがた太郎から耳打ちされて飛び出したジョージの姿に合点がいった。
 またもや耳をそばだてる客たちに、有明の口走った言葉が引っ掛かった。
「……さっき、マリさんっと言ってましたね。昔、父によく手紙を送ってくれた女性がいました。その人の名も、マリさんだった」

 龍二と平が驚き顔を見合わせた時、銀平は玄関に人の気配を感じて振り向いた。
「それは、あたしたい。あんた、有明 源太郎さんの息子さんね? こぎゃん所でめぐり合うとは、ビックリたい!」
 手越マリが、トレードマークの二重顎とえくぼを見せていた。首がないほど肥えた上半身に、「マツコみたい」と誰かが声を顰めた。
 唖然としている有明の隣にマリは腰を下ろすと、ハンドバッグを開けた。
 取り出した紙包みの中から、棘だらけの塊が現れた。鈍く光る鉛の重りに、有明が声を発した。
「あっ! それは親父の、ムツ掛けたい!」
 掛け鈎の真ん中にある重りには、“源太郎”の文字が刻まれていた。
「これ、源太郎さんが漁師ば止める言うて、うちの店へ来た時に置いてったとよ。東京へ来た時は、必ず、寄ってくれちょった。今夜はムツゴロウ料理をあたしが太郎さんに教えながら、あんたのお父さんの名人芸の話ばしようと思うてね。これを、持って来たばい」
 初めて目にするムツ掛けの鈎に、客席だけでなく、銀平と龍二も見入った。

「それに、お誂え向きに、長崎のお醤油もありますよ」
 目尻をほころばせる平が有明の前にある地醤油の瓶を、マリへ目で教えた。
「よかねぇ! 太郎しゃん、すぐにムツゴロウの煮込み料理ば始めるたい! あんたも久しぶりに、美味しかムツゴロウば食べんしゃい!」
 背中を叩きながら、マリが有明にムツ掛け鈎を渡した時、玄関の鳴子が響いて、ジョージが戻った。
「お待たせしました! 太郎さん。長崎でも、諫早って町の地酒ですが、酒屋の主人はかなり甘口だよと言ってました」
 不安げなジョージに、太郎だけでなく、店内の全員が拍手と歓声を上げた。
 有明が深く頭を下げると、マリはキョトンとしているジョージを抱きしめた。
「それでよかよぉ、ジョージちゃん! 甘い醤油のムツゴロウの甘露煮には、甘口の諫早の地酒がピッタシたい!」
 のけぞるジョージに客席がドッと沸く中、掛け鈎を見つめる平が嬉しそうに独りごちた。
「最後に引っ掛けたのは、息子さんの郷愁の心でしたねぇ」
 有明の瞳に、ムツゴロウのひょうきんな顔が揺れていた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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