TOP > ポンバル太郎 > 第216回 一枚駄(いちまいだ)

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Vol.216 一枚駄(いちまいだ)

 梅雨入りを前にして、低い鉛色の空が、連日、都内を覆っていた。早くも襲って来たゲリラ豪雨に、四谷や渋谷といった低い土地の駅周辺は騒然としている。
 スクランブル交差点で踝までハイヒールを漬けるOLたちは、手を取り合いながら改札へ向かっている。冠水を恐れてか、駅のコンコース脇には土嚢が用意されていた。
 荒川や江戸川の水位は警戒が必要で、ポンバル太郎の通りも、束の間、川のように雨水が流れていたが、それを物ともせずに高野あすかはレインブーツでやって来た。

 店内に入ると、ほとんどの客たちが靴を濡らしていた。そのせいか、今夜のカウンター回りの空気はやけに湿っぽい。
「3日間もどしゃ降りだなんて、もう、うんざり! こんなに冷えると、風邪ひいちゃうわ。太郎さん、上燗のお銚子をお願い!」
 あすかの息も、薄い白さを帯びている。気温は13℃、3月下旬並みにまで下がっていた。
 客席に並ぶ料理も、荒煮や潮汁といった熱いメニューが目立つ。その湯気を、玄関からの冷えた風と鳴子の音が揺らせた。

「ちくしょうめ! 海はシケるし、海流は曲がっちまうしで、アジやサバまで揚がりが減っちまった。もうすぐ夏だてぇのに、あったけぇアンコウ鍋を突っつきたくなるぜ……ヘェ! ヘックショイ!」
 扉の前で鼻を啜り上げる火野銀平が荒っぽいクシャミをすると、汚いわねと言わんばかりに、あすかは両手で鼻と口を覆った。寒いのも当然で、銀平は半袖Tシャツに火野屋の半被を引っかけている。

 気を使った太郎がトロミをつけた熱いダシを椀で出してやると、銀平は「あっ! ありがてぇ!」と箸も割らずに啜った。がっつく銀平をあすかが「もう! お下品なんだから」とたしなめれば、カウンター席の隅に座る男が小さく笑いを洩らした。
 色白な新顔の男は、キレイに剃り上げた頭が青白く光っている。黒い作務衣が僧侶のような居住まいで、あすかと銀平は口喧嘩を始めるのも忘れて若い男を見つめた。

「あ、あんた、お坊さんかよ……その格好で酒を飲むたぁ、大胆だな」
 ドギマギする銀平に続いて、あすかが男の飲んでいる四合瓶のレッテルに目を凝らした。
「般若湯ってことかしら? 山形県の“羽黒”……初めて見る銘柄だわ。太郎さん、これ、いつ入れたの?」
 問いかけるあすかに、有名な酒ジャーナリストでも知らない銘柄があるのかとテーブル席に座っている女性客が顔を見合わせた。近頃は、常連のあすか見たさでやって来る客もいる。

「そいつぁ、天岳坊さんが持ち込んだ酒だ。恥ずかしながら、俺も初めての銘柄だよ。しかも、地元の飯米で仕込んだ上撰酒なんだが、これが極上の美味しさなんだ」
 お坊様が来店したのは初めてだと笑いながらお銚子を持って来た太郎が、カウンターの男へ小さくお辞儀をした。上燗の酒は、天岳坊と呼ばれる男からもらった羽黒らしい。

 男と容貌の似ている銀平は、太郎からの酌を受けながら訊いた。
「天岳坊ってのが、あんたの名前かい? 若けぇのに、凄ぇな。どことなく、肝も据わってそうだしよう」
 いきなり好意を寄せ始める銀平に、あすかが
「同じ剃髪でも、銀平さんとは大ちがいだわ」
と舌を出して皮肉った。

「いやいや、名前負けですよ」と天岳坊が頭を撫でつつ謙遜すると、太郎は銀平に「足元は、もっと凄いぞ」と顎を振った。だが、銀平やあすかの位置からはカウンターに隠れて、天岳坊の足元は見えない。
 すると、二階への階段口から耳慣れない大きな声が聞こえた。
「うわ! 下駄の歯が一つしかないじゃん! まるで、カラス天狗だ!」
 中学に入って声変わりを始めた剣が、丸い目をして突っ立っていた。店内の客たちもつられて、天岳坊の下駄を凝視した。確かに下駄の高い歯は一枚で、竹馬のように歩きにくそうだ。その一枚駄と黒装束でポンバル太郎まで冷たい雨の中をやって来た天岳坊に、客たちは奇人変人を見るかのように囁いた。

「しかも番傘を差して来たなんて、歌舞伎役者みたいじゃないの。ウケを狙いすぎよ、天岳坊さん」
 傘立てから覗く柿渋色の蛇の目にあすかが苦笑すると、玄関から江戸っ子言葉が飛んだ。
「ちがうんでぇ! 山伏のいで立ちを頼んだのは、あっしなんでぇ」
 鳴子が響く中、八百甚の誠司が天岳坊へすまなさそうに頭を下げていた。

「山伏? あの修験道の僧かよ?」
 太郎も、そこまでは天岳坊に聞いていなかったのか、あらためてガッチリとした体躯を見直した。太い首を囲む肩の筋肉は盛り上がり、胸板も分厚かった。
「おう、誠司。おめえ、どうして天岳坊さんと知り合いなんでぇ!?」
 銀平の不審げな目元は、こっちへ来いと命じていた。

「八百甚で扱っている羽黒山の山菜や木の実は、天岳坊さんに採ってもらっているんでさあ。回峰修行の合間に、普通の人じゃ入れねえ山の恵みがある場所を見つけて、それを八百甚へ送ってくれてやす。しかも代金は、羽黒山の山伏育成に寄付されてるんでさ」
 カウンター席へ歩んだ誠司は天岳坊へ会釈すると、太郎たちへ、初夏の回峰行へ入る前の彼に、黒装束と一枚駄で築地やっちゃばのイベントへ登場してもらったのだと説明した。そして、天岳坊は元・居酒屋チェーンの店長で、5年前に職を辞して山伏になり、修験道へ帰依したと素性を明かした。
 俗人から修験者になったわけありげな天岳坊に、あすかはもちろん、客たちもとやかく言えなかった。

 厨房で煮える行平鍋を一瞥しながら、太郎が真意を探った。
「寄付か……いい心掛がけですね。でも、どうして山伏に? 」
 そこに一番興味があるとばかりに、客たちは黙って耳を澄ませた。
 ためらうように息を止めた天岳坊は、うつむきかげんに答えた。カウンターの上で握った両手の指が、かすかに震えていた。
「……きっかけは、私が本名の岳田 毅で店長をしていた居酒屋のスタッフが自殺したこと。つまり、ブラックな会社だったんですよ」

 しんと静まる客席に、そういうわけかと天岳坊を斟酌する表情が見え隠れした。
 最終的には会社側と家族の示談が成立し、刑事訴訟のような表沙汰にはならなかったが、自分は、店長として経営側の片棒を担いだ後悔に逡巡してばかりだったと天岳坊は吐露した。
「そ、そうだったんすか! 俺も、初めて聞きやしたよ!」
 口を丸める誠司だったが、その隣の銀平は穿った目つきで、銘酒・羽黒のレッテルに描かれた山伏の絵を指でなぞった。
「だがよう、それだけで世間を捨てて修験者になろうたぁ、考えねえだろ。もっと深ぇ理由が、あるんじゃねえかなぁ」

 謎かけをする銀平に誠司が「な、なるほど」と頷き、目をつぶったままの天岳坊の横顔を覗くと、修験者らしく口の中で般若心経を唱えていた。そして指先を器用に動かして念じると、盃の酒を畏まるように飲み干した。
 銀平や誠司は煙に巻かれたような気分だったが、太郎は
「今、印を結びましたね。誰かを偲んで、この羽黒を酌み交わそうってわけですか」
と天岳坊の前へ新しい盃を差し出した。
「察するとこ、羽黒って、天岳坊さんのお守りみたいな酒じゃないかしら。そんな飲み方だもの」

 あすかの読み通りだったのか、天岳坊は口を真一文字にして、頬を紅潮させた。押し黙る天岳坊に重苦しさが漂った時、いつの間にか、後ろにしゃがんでいた剣が声を発した。
「天岳坊さんが履いてる下駄の焼き印、天寿坊になってますよ? 名前を、まちがえてませんか?」
 背丈もあって、将来イケメンになりそうな剣にテーブル席の女性客がはしゃぐと、あすかは目顔で空気を読めととがめた。
 ふうっと息を吐いた天岳坊が立ち上がると、下駄が鈍く鳴った。総桐の下駄らしい、乾いた響きだった。

「この一枚駄は、山伏のトレッキングシューズです。一枚しかない歯が、落ち葉に食い込み、ぬかるみに刺さり、岩場や草むらで滑るのを防ぐ。先人の知恵から、歩きやすいこの形になりました。この一枚駄で私の命を救ってくれたのが、天寿坊様でした……でも、私は明日から還俗します」
 天岳坊は、追憶を語った。5年前の事件の後、悩み抜いた末に自殺を図り、羽黒山の山中をさまよった。富士の樹海も考えたが、神仏にまつわる山中で亡骸を発見される可能性が欲しかった。そんな甘い覚悟で入山した羽黒山で岳田は寒さと飢えに耐えられず、自害どころか、深山幽谷に向かって命乞いをした。道に迷い、すでに手遅れと思われたが、虚ろな視界に山伏の姿が映ると鈴の音が耳に届いた。
 全身が冷え切っていた岳田へ、山伏は竹筒を差し出した。水など口にしたら凍りつきそうだが、首を横に振る気力さえ残っていなかった。だが、無理やり飲まされたのは酒だった。

「般若湯じゃよ。すきっ腹はよけいにあったまるから、好都合じゃ」
 遠くなっていた意識が、般若湯の温もりと山伏の呪文に呼び戻された。50歳頃とおぼしき山伏は天寿坊と名乗り、岳田を背負うと、険しい山道を降り始めた。背中で岳田の身の上話を訊き出しながら、幾度かの休息を取っては、命の尊さや生きることの努めを説いた。
 ついには麓の山門へたどり着き、7時間に及ぶ下山の道にも天寿坊の息は上がっていなかった。そして、岳田へ今一度「生きろ!」と喝を入れ、しばらくは一枚駄で歩く癖をつけよと、背負った荷袋から真新しい下駄を取り出した。

 岳田は、まさか、そんな一枚駄で下山していたとは信じられなかった。
「たった一枚しかない歯だから、獣道で役に立つのだ。だが、バランスを取るのは難しい。いわば、山の森羅万象に支えられる一枚駄なのだ。己の命も、この世にたった一つ。どう生きるのかを、一枚駄から学びなさい」
 天寿坊はそう言い残し、再び羽黒山へ入って行ったと天岳坊は回想した。

 訥々と話し続ける天岳坊に、全員が惹き込まれていた。固唾を飲む誠司が、卒然と訊いた。
「じゃあ、その恩師の誘いで、修験者になったのですかい?」
「いいえ……私を救ってくれた翌月、天寿坊様は事故で亡くなりました。回峰中に、私と同じ自暴自棄に陥っていた人を助けたのですが、運悪く、岩場で足を取られて転落し、二人とも亡くなりました。その原因は、使い古した一枚駄のせいだった。私に、新しい一枚駄を渡したばっかりに、命を落とされたのです。それを知り、私は恩師の跡を継ぎたいと修験者を志したのですが、情けないかな挫折しました」
 修験者としては気力、体力ともに限界で、苦しまぎれの般若湯を口にする日々が増えていたと語る天岳坊に、誰もが口をつぐんだ。

 気遣って隣から酒を注ごうとする誠司を、太郎の声が制した。
「その下駄、妙な音がしてますね。5年も使えば、歯が痛んでるはずだ。そいつで山へ入ったら、天寿坊さんの二の舞だ……八百甚のイベントで東京へ戻ったのは、もういいってぇ、恩師からの暗示じゃねえですか」
 ハッと顔をもたげる天岳坊の足元を凝視する銀平が
「俺も、そう思うぜ。誠司は近頃、神ってるからよう!」
と羽黒の燗酒で赤くなった頬をほころばせた。

「えっ、いや……でも、俺も天岳坊、いや、岳田さんに東京へ戻ってもらいてぇ。また、飲食業で頑張って欲しいんすよ。一枚歯の下駄じゃなくて、割烹下駄を履いてもらいてぇ」
 ようやく動いた誠司のお銚子を受ける天岳坊は、深く頷いて答えた。
「ありがとう……今ようやく、恩師の言葉を分かった気がします。一枚駄に学ぶのは、自分だけで悩むのじゃなく、人様に支えられて生きることだ」
 盃を飲み干して合掌する天岳坊に、銀平が胸を叩いて言った。
「まかしときな。再就職先の居酒屋は、よけりゃ、火野屋の得意先を紹介するぜぇ! そうすりゃ、誠司ともども、俺の兄弟分でぇ!」
 得意満面な銀平を、両脇にいるあすかと剣の声が挟んだ。
「でも、天岳坊さんが脱いだ一枚駄ってさぁ、銀平さんに履かせてみたいわね」
「賛成! なにせ、生き方のバランスが悪いからねぇ」
 ようやく明るさを取り戻した店内に、笑いが巻き起こった。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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