TOP > ポンバル太郎 > 第228回 釣り忍(つりしのぶ)

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Vol.228 釣り忍(つりしのぶ)

 残暑のぎらつく夕陽を透かせる楓の葉が、晩秋の焼き枯れを予感させた。
 都心は熱帯夜。ゲリラ豪雨の去った新橋や東銀座には、よどんだ湿気が充満している。ついさっき飲んだ生ビールが汗になって吹き出す額を、帰宅するビジネスマンたちが拭っていた。

 ポンバル太郎の雨どいが吐き出す水は減ったものの、路面から立ち昇る蒸し暑さに、扉を開けた八百甚の誠司が辟易しながら独りごちた。
「まったくよう。大雨の後なのに、ちっとも涼しくならねえ。俺がガキの頃は、夕立の後ってなぁ、ヒンヤリしたもんだろ」
 青く剃髪した頭から玉のような汗がしたたって、誠司の左目をつぶした。それでも、見開いたままの右目は、カウンターの上にぶら下がる緑の塊を見つめたままだった。
「な、なんだぁ、ありゃ……酒林にも似てるけど、おかしなペンペン草が生えてやがる」
 誠司が瞳を凝らすと、その表面はシダや苔が覆っている。

「誠司君の世代じゃ、知らないでしょうねぇ。これは“釣り忍”と言いましてね。昔、江戸っ子が考え出した、夏を涼むための観葉植物みたいな物ですよ」
 ぬる燗の盃と扇子を手にする平 甚兵衛が、手毬ほどの大きさの釣り忍を懐かしげに見上げた。隣の高野あすかは生貯蔵酒を口にして、箸を持つ手をソワソワさせながら続けた。
「釣り忍は、裏長屋の人たちが軒下に吊るしたの。庭がない九尺二間の狭苦しい長屋には、合理的だったわけね。夕立の後、雨のしたたる緑の釣り忍を見ながら、濡れ縁でお酒を一杯やるなんて、オツですよねぇ。それにしても、ずいぶん年季の入った古い物だけど、よく太郎さんも手に入れたわね」
 不審げに釣り忍を一瞥していたテーブル席の女性たちも、「へぇ、そうなんだ。風流じゃん」とその正体を感心した。

 あすかへ答えるように、太郎がかち割り氷を敷いた江戸前魚の刺身盛りを手にして、厨房から現れた。
「こちらにいらっしゃるのが、深川に一人しか残っていない、釣り忍作家の真木辰蔵さんだ。うちのハル子が、生前に御縁をもらってたんだよ。ところが、この夏で引退なさる。残念ながら、江戸の釣り忍は世の中から消えちまうってわけだ」
 刺身の皿の前には、白髪に濃い茶色の作務衣姿が似合う男が座っていた。
「目が不自由になりましてなぁ。工房を片付けて、愛着のある作品は、馴染みの皆さんにお分けして大切にしてもらおうと思いましてね。ハル子さんは、この古い釣り忍をとても気に入っておられたから」
と、宙を見上げたままの誠司を手招きして、横に座らせた。ちょうど、釣り忍の真下である。

 見上げる誠司が気分よさげに顔をほころばせると、玄関の鳴子が荒っぽく響いた。
「おう、誠司。そこへ座るんじゃねえ。端っこへ変わんな。古い釣り忍てなぁ、神様が居付いてるってえからよ。ゲン担ぎになるんでぇ」
 兄貴分の自分が先だとばかりに火野銀平が近寄ると、渋い顔で席を譲る誠司にあすかが助け舟を出した。
「ちょっと、待ちなさいよ! 先に来たのは誠司君なんだから、いいじゃないの。どうせゲンを担いだって、ちっとも変わらないんだから」
「うるせえ! おめえみたいなのを避ける、魔除けにも効くんだよ」
 いつもながらの口喧嘩に、テーブル席の女子会が期待するかのように目を見開いた。ところが辰蔵は動じず、上燗の盃を置いて、遠い目をしながら口を開いた。

「なるほど……ハル子さんの言ってた通りだ。亡くなる半年ぐらい前ですか、ポンバル太郎さんの将来は元気な常連さんがいるかどうかで決まるってねぇ。その時も、この釣り忍を願掛けでもするように撫でてくれました」
 いぶし銀のような辰蔵の声音に、睨み合う銀平とあすかの声が止まった。立ち上がって釣り忍を愛しむように触る辰蔵へ、静まる客たちが注目した。
「釣り忍てのはね。ちっぽけな民家の軒先に飾られて、その家の出来事や家族の成長を毎夏守ってくれる厄除けでもある。たいていは、毎年、買い替える物だが、貧乏だった長屋の連中は、冬場は家の中で育てて、何年も使い込んだ。そうすると“つくも神”と呼ばれる、物を大切する神様が釣り忍に宿ると言われたんですよ」
 語る辰蔵の指が、釣り忍の剥げかけた苔の隙間を直そうとした時、中からポロリと茶色い物がこぼれ落ちた。誠司の目の前に落ちたのは、文字の消えかけた紙切れだった。

「な、なんでぇ、これは? 読みづれえな……でも、最後の所には、ハル子って書いてます。あっ! 太郎さん、これ、奥さんの文字じゃねえんですかい!?」
 声を上ずらせる誠司から、真っ先に紙切れを奪ったのは銀平だった。あまりの勢いに紙が破れはしまいかと、平は心配した表情を浮かべた。あすかは、それがハル子の遺言であるかのように頬を緊張させ、黙り込んだ。
「ま、まちがいねぇ。ハルちゃんの筆跡だ。こいつぁ『どうか、ポンバル太郎の常連さんがまた常連さんを作って、ずっと主人と息子を守って下さるように』て書いてらぁ……ハルちゃん、お見通しじゃねえかよ。そのまんまになってるぜ」
 銀平が神棚のハル子の遺影を一瞥して、太郎へ紙切れを差し出した。

 太郎が一瞬ためらってから手を伸ばすと、テーブル席の女性たちが前のめりになって見つめた。神棚のハル子が太郎の亡くなった妻であることは、ほとんどの客たちが知っている。
 筆跡をなぞる太郎の目元が少しずつ赤らんでいくのを、あすかと平は察した。
 店内から集まる視線も気にせず、太郎は問わず語った。
「ふっ、あの頃は、まだ常連と呼べるのは、銀平と平先生だけだったものなぁ。夏はどうしても、ビールが日本酒より出るから、ハル子はそれが悔しくってね。だから、辰蔵さんの工房へ通うようになって、冬に吊った新酒のサインの酒林が夏になって茶枯れてくると、替わりに、緑色の涼しげな釣り忍を吊るそうと考えてた。夏は、冷酒がたくさん飲まれるようにって、釣り忍に願掛けするつもりだったんですよ……でも、それもできずに、逝っちまいました」

 水を打ったように静まる中、今どきの若者にしては情にもろい誠司が鼻を啜り上げると、テーブル席の女性の一人がハンカチを手渡した。
 驚きながらも、誠司はハンカチで垂れかけた鼻をかんだ。残りの二人の女性は嫌そうな顔を見せたが、渡した本人は
「いいの、いいの! 私、ああいう熱い人、タイプだから」
と物おじせずに答えていた。真顔で太郎の声を聴いていたあすかが、クスリと笑った。

 釣り忍に頷く平が、しみじみとした口調で言った。
「釣り忍って、いろんな思いが籠っていたんですねぇ。私も作家の端くれとして、ちょっとやってみたいですねぇ。辰蔵さん、ご商売としてはやめられても、一つ、ご指導を頂けませんか」
「願ってもない。釣り忍を守り継いでくださるなら、いくらでも、お教えいたします」
「じゃあ、平先生は、焼き物を辰蔵さんにお教えするってのはどうです? お互い、文化人でやしょ」
 涙を拭った誠司が気を利かせて二人の盃に酒を注いで回ると、さっきの女性客が「私、ここの常連になります!」と手を挙げて宣言した。

「おっ! ついに誠司に、恋が芽生えるかぁ。これも、釣り忍の神様のご利益かねぇ」
 銀平が茶化すと、太郎がいじくった。
「さぁ、どうだか。つくも神は、いたずら者で、人をばかすこともあるからよ」
「えっ! そ、そうなんすか。じゃあ、この女性が俺をばかすってことすか?」
 誠司がおじけづいた顔をすると、ふっくらとした面立ちの女性が
「そんなわけ、ないじゃん! ここまで、してあげてるのに!」
と涙にまみれたハンカチを奪い取った。
 笑いが巻き起こる店内で、あすかは冷酒グラスを神棚にかざしながらつぶやいた。
「私も、釣り忍を作ってみます。ハル子さんの思いに応えられるような、ステキな物を」
 緑濃い釣り忍が、ゆらりと揺れた気がした。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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