TOP > ポンバル太郎 > 第3回 菜種梅雨

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Vol.3 菜種梅雨

「ほほぅ、菜の花ですか。ほろ苦さが不思議とオリーブオイルに合うもんだねぇ。岩塩と黒胡椒だけの味つけだが、それが茹でた茎のほんのりとした甘さも引き出して日本酒との相性もよろしい。なかなか結構、結構」

 窓から射し込む鴇色の薄暮が、カウンター席の老いた男のうれしげな皺を浮き彫りにした。ポンバル太郎にいる客はその恰幅の良い男だけだったが、ロマンスグレーの髪を侍の髷のように束ね、顎鬚をたくわえた風貌は存在感に満ちている。臙脂色のカシミアセーターとコーデュロイパンツという服装も、外国映画の紳士然としていた。
「平(たいら)先生に頂いた、その白磁の皿に映えるでしょ。俺、今頃になると、故郷の房総半島に広がっていた菜の花畑の黄色と緑色が恋しくなるんですよ」

 太郎が酌するぬる燗を盃で受けながら、平はゆっくりと相槌を打った。
「下手の横好きな私の器作りにも、似たようなところがありますよ。新しい形や絵付けを考えていると、子どもの頃の憧憬が髣髴としてきましてねぇ」

 たるんだ頬にほんのりと朱を帯びてきた平は、手にした桜模様のマイ盃をしみじみと見
つめた。それも平の作品で、普段はポンバル太郎の酒器の棚を彩っている。
平は高校の美術教師を定年退職した後、焼き物教室をしながら平凡に居職で暮らしてい
る。彼の秀逸な作品への評価は高く美術商からもオファーされるほどだが、飾り物としては売らない主義だった。
あくまで日々に使う器しか創らず、気に入った作品は素知らぬ顔でポンバル太郎に置き忘れていた。
「さすが平先生、含蓄のあるお言葉ですね」

 ふいに響いたその声に、太郎と平が顔を向けた。

 折り目正しいスーツ姿に銀縁メガネの男が、薄い笑みを浮かべて入口に立っていた。だが下まぶたが浅黒く窪んで、どことなく疲れた面差しだった。太郎たちが聞こえなかった扉の鳴子に、男は二人の会話を立ち聞きしていたと思われる。
「菱田、お前かよ! 丸一年メールも電話も寄こさねえで冷たいじゃねえか、薄情な奴め」

 驚きからため息へ変わる太郎に続いて、平が冷やかした。
「うむ、アメリカでは今、クールジャパンが流行りですからね」

 男は苦笑しながらカウンター席に歩み寄り、会釈して平の横へ座った。

 菱田は太郎の幼なじみで、一年前まで有名証券会社のトレーダーだったが、外資系企業へファンドマネージャーとして転職し、ニューヨークに単身赴任したのだった。
だが、半年後に巨額の損出を引き起こし、菱田はアメリカで逐電したと風の噂に聞いていた。
トレーダーだった頃の菱田は部下を引き連れ、ポンバル太郎を足しげく訪れていたが、目の前にいる男は孤独感を引きずり、見る影もないほどやつれている。
「すまなかった、とにかく忙しくってね。ようやく目処がついて、三日前に帰国したんだ。お前に飲ませたくて、ニューヨークで人気の日本酒を土産に持って来たよ」

 菱田はDutyFreeの袋を、これみよがしにカバンから取り出した。そして、ニューヨークの日本酒事情を声高に語った。

 純米酒の嗜好が高いこと、価格は関税のせいで日本の倍以上すること、すでに数百種類の銘柄が輸入されていること。和食や寿司、豆腐料理だけでなく、最近は昆布や鰹節のダシの旨みも日本酒ブームをバックアップし始めているが、健啖家の中には海藻類の匂いが苦手な人もいてチキンスープをベースにした“ぶり大根”など、和魂洋才な煮炊き物が多いと、太郎も聞き及んでいる情報を披露した。
ところが、その話と辻褄の合わないありきたりな吟醸酒の化粧箱が袋から覗くと、太郎は胸の中で菱田の虚勢を読み取った。
「そうか。じゃあ、まずは凱旋祝いの乾杯だな」

 太郎がその酒を開栓して三つの冷酒グラスに注ぐ間、平は陶然として菜の花を味わいながら、白磁の皿を見つめる菱田の作り笑顔を無視していた。
「これ、俺が帰国した理由の一つだよ。お前の作る菜の花のおひたしが食いたくなってさ。去年の今時分は、ここで三日にあけず食ってただろ。ニューヨークの日本食レストランの味付けは甘くって、苦味が足りないんだよ。やっぱり食文化のちがいだな。それに俺は、千葉の菜の花でなきゃダメだ」
一瞬、菱田の瞳が不安げに泳ぐのを太郎は見逃さなかった。
「菱田、見え透いた嘘をつくんじゃねえよ。そんなだから、ウォール街の投資家にはお前の腹なんて簡単に見抜けたんだ。それに、今のお前が高級な日本食レストランに行けるはずはねえ。それとも、アメリカの味つけが口に合わないから逃げ帰ったとでも言うのか」

 菱田の言い訳が口惜しい太郎は、堰を切ったかのようにしゃべった。

 小学校で同級の頃、人のことばかり気にかけて自分は損をしていた菱田に、それと真逆のマネービジネスは向いてない。トレーダーとして人は育てられても、一匹狼のファンドマネージャーは無理と諌言した。
「相変わらず、手厳しいな……情けないが図星だよ」

 歯に衣を着せない太郎の言葉に、菱田はグラスに注がれた酒の波紋が消えるとおもむろに口を開いた。
「ニューヨークの投資会社を解雇された後、知人が営む中小企業で世話になったけど結局ダメでな。先週、やっと気持ちに踏ん切りがついた。その夜は無性に、ここへ行きたくなった」

 息苦しい沈黙が、三人を覆った。
それを消すかように窓ガラスを雨粒が叩き始めると、平がつぶやいた。「私は、評判の酒よりも自分らしい酒を探すのが、歳を重ねるごとに好きになってね」
そう言って口をつけていない吟醸酒のグラスをカウンターの隅に寄せると、あうんの呼吸で、太郎が冷蔵ケースから千葉の純米酒を取り出した。
かつて菱田がお気に入りにしていた辛口の酒で、菜の花のほろ苦さにふさわしい味だった。
太郎は三つの桜盃に酒を注ぐと、菜の花のオリーブオイル仕立てを菱田に差し出した。
「少しだけ、ニューヨークっぽい味がするかもな……苦い味を、けっして忘れんなよ」
「そんな忠告、遠い昔にも聞いた憶えがあるなぁ」 誰ともなく盃をゆっくりかざすと、外の雨だれの音が静まり返った店内に響いた。
「菜種梅雨か……小さい頃、房総の菜の花畑でよく濡れそぼっていたな」
 眼鏡の奥で、盃を飲み干した菱田の目尻がほころんだ。
「ああ、お前はいつも傘を誰かに差しかけていた……自分が濡れるのも構わずにな」
 太郎もうれしげに、盃を飲み干した。
「人生にも、春夏秋冬がありますからねぇ。菜の花は、また咲きますよ」
 平の柔らかな声音が、心地よい雨の調べに吸い込まれていった。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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