TOP > ポンバル太郎 > 第84回 木桶仕込み

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Vol.84 木桶仕込み

 初雪が東北の山稜を覆った日、東京の空にもシベリア寒気団が南下し、夜は一気に冷え込んでいた。
通りの居酒屋の換気扇からは、白い湯気がもうもうと立ち昇っている。張りつめた空気の中に、料理するゴマ油や鰹ダシの匂いが濃く匂っていた。

 11月に入り金曜の夜は女性のグループ客も増えて、太郎は一人で客をさばき切れず、息子の剣の手を借りていた。売れ行きがいい小鍋や煮込み料理に手がかかり、酒の吟味がおぼつかない。冷蔵ケースのひやおろしも、いささか季節外れの感がある。

 ポンバル太郎の常連客たちは、新酒を待ちわびていた。

 テーブル席の男たちが「いつ頃になるのかな?」と洩らす声に、カウンターの真ん中に座る火野銀平が「今夜だよ」と純米酒の盃を舐めながらほくそ笑んだ。銀平の服装は、火野屋の意匠を染め抜いた黒いジャンパーに変わっている。
つぶやきを耳にしたカウンター端の二人の女性客が、注文を取っていた剣に訊いた。
「そうなの? じゃあ、私たちも新酒をお願いします」
「あっ、それはまだ、内緒で……銀平さん! ダメだよ、口をすべらしちゃぁ。父ちゃんはまだ、利き酒もやってないんだから」

 無気になる剣に女性たちはどぎまぎすると、視線の合った銀平へ愛想笑いを返した。
「いいじゃねえか。いつもの年と同じ、灘の本醸造のあらばしりだろ? きき酒しなくたってえ大丈夫だろ。なあ、太郎さん」

 銀平の声に、店内の客たちは「とにかく飲ませろよ」と頷いたり、「なんだ、去年と同じかよ」とため息を吐いたりした。
ざわめく店内に、太郎の声が響いた。
「銀平、今年はそうはいかねえんだ。今日、龍ちゃんが届けてくれるのは、木桶で仕込んだ新酒のサンプルだからよ。きっちり、利き酒をしなきゃならねえ」

 太郎がじゃのめの利き猪口をカウンターに用意すると、客たちは「木桶仕込みかぁ!」と色めき立った。だが、銀平は気に入らない口調で訊き返した。
「木桶で造ったてえけど……しぼった新酒を杉の樽に入れて、香りをつけただけじゃねえの?」

 本物の木桶仕込みとはちがう。それが、銀平の言い分だった。

 盃を干した銀平のしかめっ面に、カウンター席のぽっちゃりした女性客が顔を曇らせて訊いた。
「そんなお酒もあるんですか? 香りをつけただけって……木桶仕込みもどきってことかしら?」
「もどきってわけじゃない。樽に移して杉の香りをつけた酒も、一つの商品だよ。こいつが、理解不足なだけだよ」
「銀平さん、あいかわらず勉強が足りないよ」

 太郎と剣がそっくりな形の眉をしかめた時、唇を噛む銀平の隣に誰かが座った。銀平がふり向くと、右近龍二が一升瓶を手にしていた。
レッテルがない素のままの茶瓶に銀平が怪訝な顔をすると
「だから、まだ内緒なんだよ。試作品なの」
 と剣が念を押した。

 イケメンの龍二の登場に、女性客のこわばっていた表情がほころんだ。
「銀平さん。これは、正真正銘の木桶仕込みのあらばしりです。まだ商品になる前の、サンプルですけどね。僕の知り合いの福井県の蔵元が酒母もモロミも、すべて地元の山から伐った杉の桶で仕込みました。百年以上前の新酒と同じ物を、再現したそうです。太郎さん、さっそく利いてみますか。その結果しだいで、お客さんにも無料試飲ってことでいきましょう」

 提案した龍二が一升瓶を開けると、ボン! と活性した炭酸ガスの抜ける音がした。途端に、新酒の香りと杉の匂いがもつれあったガスがカウンターの回りに広がった。

 じゃのめの盃に注がれた酒は、黄金色だった。それを利く太郎と芳しい匂いに鼻先を鳴らす客たちへ、龍二が問わず語った。
「酒母やモロミを仕込む杉の桶は、ほとんど作られなくなりました。桶の製造所は、大阪の堺市に一軒だけ残っています。ですから、伝統工芸品みたいなものです。今はステンレスや琺瑯タンクが当たり前ですけど、昭和の半ばまで全国の蔵元には杉の十斗や二十斗桶が並んでいたんですよ」

 それが琺瑯タンクに取って変わられたのは、衛生面と品質管理の向上と職人の心労を減らすことにあったと龍二は言った。

 杉の表面には無限大の孔が存在し、その穴の中に雑菌が繁殖する。いわゆる、酒を劣化される火落ち菌の類いも同じである。いくら丁寧に湯煎しても洗浄しても、琺瑯タンクほどの除菌はできない。古びた桶でも、杉材の特性は消えない。だから、去年の酒造りが成功したからといって、翌年もうまくいく保証はなかった。
安定した酒造りが保障されず、決して気を抜けないという点では現在よりも過酷で、当時の杜氏や蔵人の苦労には計り知れないものがあると龍二は力説した。
聴き入っていた女性客たちは頷き合い、男性客たちからは唸り声が洩れた。

 すると、銀平が食い下がった
「そりゃ、俺だって知ってらあ。だから今じゃ、琺瑯タンクで仕上がった酒に杉の香りをつけてんじゃねえか。じゃあ訊くがよ、当時、杉桶で仕込んでも、毎年同じ味の酒に仕上げるコツは何だったんでぇ」

 日本酒はまだビギナーらしい女性たちが、深い会話のやりとりに固唾を飲んだ。テーブル席の客たちも、前のめりになって聞き耳を立てた。

 龍二は一瞬、ため息を吐いた。その困り顔を向けられた太郎が、代わりに口を開いた。
「銀平。それは、お前が一番に気づいてなきゃおかしいぜ……剣、分かるか」

 空っぽの盃を見つめて黙り込む銀平を、剣はためらいがちに見上げた。
「たぶん、温度管理じゃないかなぁ。麹も酒母もモロミも、昔の蔵人は手で発行する温度を測ったんでしょ。だから自分の体温、つまり体調を大事にすること。だったら、銀平さんはできてんじゃん。平日の夜は築地市場に早出するから、必ず、飲むのを9時に切り上げて帰るでしょ?」

 剣のおもんばかりに、太郎が声を重ねた。
「そうだ。うまい酒も魚も、温度管理が欠かせねえ。だけど、昔、温度計はなかった。銀平、お前は魚を選ぶ前に、身の硬さやなめらかさを指で触って確かめるだろ。そうすることで魚をトロ箱に入れて運ぶ時、どの程度の氷で冷やすか、客に届ける時間を含めて最高の魚の状態を考えてる。例えば、この店までは1時間。それに丁度いい保冷を、指先で読めるわけだ」 

 太郎のほめそやしに、客たちの銀平を見る目が変わった。

 剣が隣りの細おもての女性に、耳打ちをした。
「おまけに、今どきに珍しく、真冬でも毎朝、水垢離をやってるんだよ。身を清めて、築地に出てるの」
「え~! 信じらんない! 風邪をひいちゃうよ。銀平さんって、職人の鑑ですね」

 二人の女性がハモるとようやく銀平は顔をもたげて、はにかんだ。
「へっ、なんだか、こっ恥ずかしいな。俺はそれが当たり前だと思ってるし、祖父さんも親父も、先祖はずっとそうしてたぜ……だから、燗酒の具合だって指先で分かる」

 ぬるくなっているお銚子を指で持つと、銀平は首を横に振った。

 そのしぐさに、龍二が目を細めた。
「蔵人も魚匠も、同じってことですね。もちろん、手肌の感覚の良し悪しもありますが、経験に裏打ちされた銀平さんの勘どころでしょう。魚匠の勘が、魚を触っただけで、どうするのがベストかを見抜く……この木桶仕込の酒を造った杜氏は、僕におもしろい話をしてくれました」

 人間の五感の中で誰もが一番頼るのは視覚で、目で見た状況を最も信じるのが人の性だ。しかし、実は触覚こそが、人の五感を研ぎ澄ませるためには重要である。嗅覚や聴覚と比べても、普段、意識的に使っていない触覚を磨けば、その人の持っている潜在能力が活性化する。目をつぶったまま物に触って、温度を読めるのが一人前の蔵人だ。そう諭されたと、龍二は瞳を輝かせた。
「杉の桶ってのは、琺瑯やステンレスとちがって生きている。酒も生き物だから、木桶と酒と人間の三つどもえの戦いだ。それを制してこれたから、今の酒造技術があるんだろうな。
新鮮な魚を氷温輸送する技術にしたって、その原点は銀平の手の中にある。火野屋のDNA、やっぱり大したもんだ」
 いつになく太郎が感服すると、剣が銀平のお銚子を手にした。
「すっかり冷めちゃったね……あったかいのお代わりする?」
「いや、帰る。明日もこの手で、生きてる魚と戦わなきゃなんねえしよ……週末、この酒を飲ませてもらう。本物の木桶仕込みを造った杜氏の腕に、あやかりに来るぜ」
 銀平は照れくさげに席を立つと、龍二の前に置かれた一升瓶に両手を合わせた。
背中に抜かれた火野屋の意匠に、客たちが憧れのようなまなざしを送っていた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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