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Vol.9 シンコ

 太郎の柳葉包丁が音もなく引かれ、色鮮やかな赤身の塊を切り落としていく。美しい切り口には白い脂の筋が重なり、波打っていた。
冷凍物でないせいか、まな板ににじみ出る血はまったくない。
「なかなかの鮪ですねぇ。ひょっとして、大間とかの一級品ですかな?」

 ぬる燗の盃をこはだの酢じめで楽しんでいる平の瞳に、本鮪をさばく太郎の手元が揺れていた。

 真剣な面持ちの太郎は、鮪の身から目を離さずに答えた。
「平先生。こいつは高知県の室戸沖で獲れた、正真正銘の黒鮪。ちょっと小ぶりですけど、なかなかの上物です」
「へへぇ、ヅケにしたら辛口の酒とバッチリで、最高にうまいすよ」

 平の隣で得意げに話す銀平はもう上気した顔で、冷酒グラスを傾けながら、醤油のヅケで赤黒くなった身の入った小鉢を箸でつついている。むろん鮪は、築地の魚匠である銀平が目利きしていた。

 その声を耳に入れたテーブル席の右近龍二が、酒記事のネタを訊き出そうとへばりつく高野あすかに手こずりながら、太郎へ声高に告げた。
「そうですか。じゃあ、僕はその鮪の薄皮の部分があったら、皮つきのまま削ぎ切りしてもらって、荒塩と柚子をひと切れ添えて欲しいです。それと、土佐の本醸造を常温でお願いします」
「薄皮つきって、そのままかよ……歯ごたえを楽しむってのか? それに塩と柚子なんて、やけにツウぶった食い方だな」

 銀平のつぶやきに、太郎も龍二を見返しながら包丁を止めた。
「龍ちゃん。それって、何か理由があるのかい」

 好奇心をくすぐられた太郎につられ、あすかも純米吟醸のグラスを置いて龍二の腕をつかんだ。
「ねぇ、教えてよ。グルメ企画にできそうだもの」

 気づくと、平だけでなく、ほかのテーブル席の客たちも龍二に注目していた。彼らは、龍二が太郎に注文した食べ方を、自分たちも試してみようと思った。

 龍二はためらうように、言葉を濁した。
「理由は……皆さん“シンコ”って知ってますか?」
いつもの龍二らしからぬ迷いに、平がすぐに反応した。
「シンコってのは、私が今食べているコハダじゃないのかね。もっとも、これは出世魚で、本名はコノシロだったかな?」

 平から、ふいに質問を振られた銀平は
「えっと、えっと……そっ、そうすねぇ」
とド忘れして冷や汗をかいた。

 すると龍二が、飲み干していた龍の柄のマイ盃を手にしたまま、カウンターに歩み寄った。
盃を持つ彼の指先はかすかに震えていて、気持ちの動揺を隠しているように思えた。
「ちがうんです。僕の言ってるシンコは鮪の幼魚です」
「まっ、鮪の子ども!? そんなの築地にだって、いねえぞ」

 噛み合わない話しに誰もが首をかしげていたが、太郎がはっと顔をもたげた途端、龍二の盃をしげしげと見つめていた平は納得した表情で口を開いた。
「ひょっとして、右近君は土佐の出身かね? この盃は高知の尾戸焼(おどやき)だ。となれば、君の言うシンコとは土佐の方言みたいなものですかな?」

 尾戸焼はかつての土佐藩主・山内家の御用窯で、侘びさびを湛えた器の土肌に幽玄な色や絵柄を基調にした作品が多い。ただ土佐独自の作風として残ってはいるが、全国的には知られていない。だが、実用できる器を好む自分としては素晴らしい品と平は陶芸家らしく説明した。

 テーブル席の客たちが物珍しげに龍二の肩越しに盃を覗き込むと、太郎も余談をつけ足した。
「確か、鯨酔候(げいすいこう)って呼ばれた幕末の藩主・山内容堂も尾戸焼の酒器を愛用してたな。すいぶん前にハル子と高知へ旅した時、山内家の記念館で目にしたことがある……そうか、あの風合いに似ているんだ」

 すると龍二は頬を紅潮させ、つぶやいた。
「僕は高知の桂浜近くの出身です。その尾戸焼は、父の形見なんです」

 平の説明と記憶をたどる太郎の言葉を抜け目なく手帳にメモっていたあすかは一瞬、龍二の声にペンを止めたが、気まずくなりかける空気を読むと、彼の背中に問いかけた。
「それで結局、シンコってどんな特徴や味わいなの?」

 龍二も気を取り直し、あすかに向いて答えた。
「シンコは皮をつけたまま刺身にして、荒塩と高知の柑橘・仏手柑(ぶしゅかん)をしぼって食べる。皮が柔らかくて、身が甘くて、まさに日本酒のための珍味です。だけど、足が速い。つまり青魚特有の痛みが速くて、身は柔らかいから冷凍に向かず、獲れたらすぐに食べなきゃダメなんだ」

 そのシンコの刺身に似せるため、小ぶりの黒鮪の柔らかい部分を薄く切ってもらう方法があると龍二は答えた。
「つまり、味がすぐに変わりやすい鮪のシンコは、築地にも届かねぇってわけか。だけど、どうにかして手に入れたくなるぜ」
しばらく聴き込んでいた銀平が酔い覚めしたまなざしで言うと、客たちも一度は食ってみたいと口さがなくしゃべり合った。
平は尾戸焼の盃に見入りながら、ざわめきを制するように反論した。
「いやいや、私は土佐でしか食えないシンコのままでいい。何でもかんでも簡単に手に入っては、おもしろくありません。できれば本場の土佐に行って、この尾戸焼とペアで楽しみたいですなあ」
そんな客たちの声も耳に入っていないのか、龍二は遠い目をしていた。
憂いを覗かせる面ざしの龍二の前に、白磁の皿の色をほのかに透かせる皮つきの赤い切り身が並んだ。太郎が薄切りにした、黒鮪の身だった。
添えられた柚子は、爽やかな匂いを漂わせている。
「なるほど、日本酒の名脇役! てのが、ひと口食ってみた俺の感想だが……果たして、龍ちゃんの知ってる味かどうか、こいつを飲みながら確かめてみな」

 太郎はそう言って、龍二の盃に土佐の本醸造を注いだ。

 その時、龍二が目をみはって酒をこぼしかけた。
「親父の好きだった酒……ど、どうして太郎さん、これだと解ったんですか」

 冷蔵ケースに数種類ある高知の地酒から選んだ、辛口の酒だった。
「俺の勘だよ。こいつは山内家の殿様たちが、尾戸焼とともに好んだ蔵元の酒だろ? 土佐の旅の記憶を思い出したよ。龍ちゃんの親父さんがその盃を愛用した土佐っぽなら、当然、酒はこれじゃねえかな」

 太郎のおもんばかるような声の余韻に、龍二はしだいに目頭を赤くしていた。
「父は若い頃から、シンコにはこの酒と決めてました。でも、昔ほどシンコも獲れず、庶民の食卓に乗りません。病床で亡くなるまで『もう一度、地物のシンコを食いたい』と繰り返したので、苦肉の策で、この薄切りを考えたんです。むろん父にはバレてましたが、喜んでくれて。それを思い出して……太郎さんに、無理をお願いしました」

 切り身を前にして微動だにしない龍二のようすに、店内がしだいに静まった。

 すると、いつの間にやらカウンター席に移り、薄切りをつまみ食いしているあすかの声が響いた。
「これ、お~いしい! ますます私、本場のシンコを取材したくなっちゃった」

 愉悦した表情で誘いかけるあすかに、客たちは箸と小皿を手にしてカウンターに集まった。

 平が、そのようすに驚く龍二をカウンター席に座らせながら、ほほ笑んだ。
「地酒の魅力は、その土地の暮らしや文化とともにある。たとえ本物のシンコじゃなくても、右近君のお父上を思う工夫や、尾戸焼の魅力が、この鮪の薄切りをそれ以上に美味しく感じさせるのですよ。やはり想像力は、人の宝物ですねぇ」

「うむ、天性の能力かもな……俺の見込んだ通り、龍ちゃんは次代の酒匠だ」
 薄切りを増やした太郎が皿に盛りつけると、そこに龍二の瞳から光るものがこぼれ落ちた。

 ヅケをたいらげた銀平が、横目で薄切りを物欲しげに見ながら言った。
「何でぇ、せっかくの塩味が薄くなっちまうじゃねえか。土佐の“いごっそう”ってのは、涙もろいのかよ」

 恥ずかしげにする龍二を、客たちの温かな笑いが囲んでいた。

*この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。

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