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地酒の用語集

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 旅立ちの朝が、やって来た!
 たかが1泊2日の旅に御大層なと言うなかれ。この限られた時間の中の自分探しが、忙しい日常をきっと忘れさせてくれるはず。
 東京駅の混雑を抜け出せば、ときめきと感動が待っている。それは、自分だけの宝物になるのだ。出発5分前、列車はそんな私の気持ちを知っているかのように、ゆっくりと乗車扉を開いた。
 小田原まで乗車した快速電車・アクティーは、いかにも当世風の車両。トレンドな白いボディーは2階建てで、その姿は各駅停車のイメージにほど遠かった。
 土曜日とあって東京駅からの乗客は多く、旅先の選択をミスったかなと出発早々けっこう落ち込んでいたのだった。
 しかし、小田原駅で乗り換えた東海道本線は、旧式のオレンジとグリーンの2色塗りの車両。「待ってました、これでなきゃ」と一人ごちて乗り込めば、乗客もチラホラと座る程度だ。
 熱海方面へ向かって、そろそろ海岸線も迫ってきた。朝陽をきらめかせる海に思わず感動、懐かしい夏の海のポップスを口ずさみ、人気のない座席で大きな伸びをしてしまう。
 心地良い線路の軋みと揺れは、まるで“オヤジの夢の揺りかご”。そんな詩的な言葉など、日頃は照れ臭くて言えそうもないのだが……。
 列車の扉が開くたびに、海の匂いが濃くなっていた。考えてみれば、土地土地に漂う匂いも旅の魅力的なエッセンスだ。
 聞くところによると、太平洋側と日本海側とでは海の匂いが違っているそうだ。それは海流の速さや温度に左右され、黒潮の打ち寄せる南伊豆方面はたくましい磯の香りに包まれるらしい。
 トンネルが続く海岸線に、ちらりと藁葺きの小屋が覗いた。
 浜茶屋は、子どもたちが大きくなってから足が遠のいている。夏の湘南や鎌倉の海にはよく海水浴に行ったものだった。家族で食べた少々割高のカレーライスや焼きそばの味を、不思議と憶えている。
 そんな記憶に年月の経過を感じつつ、何となくセンチメンタルな気分になりかけたが、だからこの一人旅に来たんじゃないかとあらためて自分に言い聞かせる。
 めくるめく思いの交錯に、知らず知らず、自分探しが始まっていることを気づくのだった。
 ふと停車中の窓から流れ込んできたのが、「お弁当~、お弁当~」の懐かしい声だ。
 詩吟をうなるような渋い響きの声が、子どもの頃の思い出を髣髴と呼び起こす。それに刺激され、がぜん食欲が湧いてきた。
 次の伊東駅で伊豆急線に乗り換えたら、お手製の弁当を肴に持ってきた日本酒をチビリと楽しむとしよう。 これも、きままな一人旅ならではの贅沢だ。
 伊豆北川駅に下車したのは、ちょうど昼時。意気揚々と降り立ったホームに人っ気は消えていて、同じ電車に乗っていた湯治客らしき年配の人たちは、キョトンとした面持ちでこちらを見ている。
 彼らはメジャーな熱川温泉を目指す人たちなのだと車両を見送ったが、改札を出たとたん、どうも雰囲気が怪しい。駅前には土産物屋どころか、一軒の家も建っていないのだ。
 むむ~? と腕組みしつつ、まあ、これぞ、きまま旅ではないかと自分に言い聞かせる。
 真上からの陽射しが、ジリジリと肌を焼く。駅舎に吊り下げられた古い温度計は30℃を指していたから、体力的に厳しい1日になりそうだ。熱中症に気をつけるべく、風通しの良いキャップを被って、海に向かって延びる坂道を下ることにした。
 しかし、行けども行けども土産物店や食堂は現れない。当初の思惑では、数分もしない内に香ばしい匂いが潮風に漂い、「お兄さん、どうぞ! この干物、美味しいわよ! つまんでって」と浜のおばさんたちの声を期待していたのだが、みごとに裏切られてしまった。
 すると急に道が開けたと思うと、大きな神社の境内が広がっていた。
 高さ5メートルほどの石の鳥居には太い注連縄が渡され、てっぺんには「鹿島神社」の字が彫られている。寂れた集落に似つかわしくない、立派なそのスケール。奥の山からの蝉しぐれが、かまびすしい。
 荘厳な佇まいに感心していると、境内を歩く一人の老爺がこちらに気づいて「こんにちは」と挨拶してくれた。気さくそうな笑顔に思わず「こんちは!」と近づき、神社の由来を訊ねてみた。
 時代的には天文12年(1543)の創建だそうで、茨城県鹿島町にある鹿島神社の末社。毎年10月の秋祭りには町の無形文化財に指定されている「鹿島踊り」が奉納され、それは民俗学的にも価値が高いそうだ。
 学者のように落ち着き払った雰囲気と明解な答え……この御仁、ただ者ではなさそうだ。ついでに界隈のことを訊ねてみれば、この下の漁港に何軒かの釣り宿と民宿が残っているだけと道を案内してくれた。
 海辺は崖が迫っていて、ゴロタ石の岩場ばかり。とてもじゃないが、テントなど張れそうにない。
「浜で寝るのなら、安全な熱川温泉まで行きなされ」
 どうやら地元の白眉の言葉には、従った方が賢明のようだ。そう納得した時、ピィ、ヒョローと甲高い音が上空に響いた。
 振り返ると、伊豆七島を彼方に望む青い海の上を、一羽の鳶が舞っていた。鳶は、北川温泉は帰路の楽しみに置いておけよと言っているかのようだ。
 美しい夏のパノラマに後ろ髪を引かれつつ、熱川温泉へ向かうのだった。
 熱川温泉のある伊豆熱川駅は、伊豆北川駅の一つ先。とは言え、電車はそうそう頻繁には来ないし、歩けば峠越えしかなく、暑さもあるのでかなり手強そうだ。
 半時間ほど列車を待ってようやく伊豆熱川駅に着くと、コインロッカーへ荷物を置き、まずは今夜の寝床となる浜辺へ歩いた。
 海水浴客で賑わうビーチはさすがに陽射しがキツいので、テントを張る場所の目星だけ付け、夜の支度に「干物」の買出しとサブテーマの「温泉」へ出発。
 伊豆熱川駅前のロータリーへ戻って、ひしめく鮮魚店や干物屋を物色した。活きたアワビやサザエ、伊勢海老などの水槽が所狭しと置かれ、干物はえぼ鯛、きんめ鯛、アジ、くさやなどが並んでいる。
 しかし、どれもこれも値が張るので、一番リーズナブルなアジで我慢する。
 リュックの中には、昔ながらのサバ缶やコンビーフ缶が入っている。きままな一人旅に、贅沢な酒の肴は無用なのだ。
 そして、干物屋のお母さんに教えてもらい、歩いて15分ほどの波打ち際にある「高磯の湯」と呼ばれる露天風呂へつかった。20名ぐらいまでなら余裕で入れる湯船の隣には、プールもあって賑わっている。
 夏以外の平日なら、人も少なく、太平洋を前にして絶景と名湯を楽しめるだろう。
 約1時間の入浴。汗をさっぱりと流し、歩き疲れた足を揉んだ後、ゆっくりと浜辺を散策してみた。
 潮風を楽しみつつ歩いていると、投げ釣り道具を片付ける男性が「魚、いりませんか?」と声を掛けてきた。見ればクーラーボックスの中は、白ギスで満杯だ。御言葉に甘えて3尾を袋に分けてもらい、一期一会に感謝した。
 これで今夜の宴は完璧! と心躍らせながらビーチへ戻り、小さなテントを張った。それが終わる頃には黄昏が迫り、海水浴客の賑わいは消え、渚のメロディーだけが聞えていた。
 肴は揃った。酒もOK。後は月を待つばかりと、そろりそろりと盃を傾け始めた。携帯バーナーでいこした炭火で、干物を炙ろう。最低限の燃料だけ持って来ることは、エコロジーとしても大切だ。
 しかし、ここで気づいた。生の白ギスを焼き上げるほどの炭は、持参してなかったのだ。どうするべきか考える内に、以前、家族でキャンプをした時にわずかな炭火と枯れ枝で火を起こし、石ころを焼いた記憶が甦った。
 真っ赤に焼けた石は熱が長持ちして、魚に煙や匂いも付きにくいのだ。さっそくトライし、塩だけでこんがり焼き上げた。
 うまそうな匂いに、今朝から家族をすっかり忘れていた自分をちょっと反省したのだった。
 ひとごこちついて、海に向かってあぐらを組むと、月が出ていた。満月とまでいかないが、煌々たる光を海原に映している。その神秘的な光の暈を取り囲むように、いくつもの星が一つ、また一つと輝き始めていた。
 盃に日本酒を満たせば、月はそこにも掬ったように揺れていた。
 酒中掬月……中国の古い漢詩にあった、名文を思い出した。
 大人の自分を忘れる幸せが、ここにある。今宵は海と歌い、月に酔い、星と語り、千夜 一夜の夢に耽るとしようか。