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午前5時、朝焼けと潮騒がテントの入り口をノックする。波打ち際では、浜千鳥が寄せては引く波のきらめきに戯れていた。
微かな酒の匂いは残っているものの、目覚めたばかりの頭はすこぶる爽快。せっかくの機会だ、ワイルドに太平洋の水で顔を洗おう。そして、伊豆北川の海辺へ引き返した後は、緑濃い山麓にも足を伸ばしてみたい。伊豆の海からは、山へのルートも意外に近いのだ。
今日一日、最高の一人ぼっちの時間が私には残されているのだから。
熱川駅前で、メザシとアサリ汁の朝定食。不思議なことに、ここ数ヶ月慢性化してた胃の痛みは消え失せ、すこぶる五臓六腑は快調だ。
伊豆北川駅に着くと昨日訪れた鹿島神社前を行き過ぎ、太平洋の光芒を横目にしつつ、私の足は自然と北川温泉へと向かっていた。小原 庄助ではないが、「朝湯が大好きで♪」と鼻歌混じりで1キロほどをそぞろ歩き、「黒根岩風呂」に辿り着いた。
海岸道路に設けられた階段をトトンと降りて行くと、白い湯気が海風に揺れ、波頭が湯を埋めそうなほど湯船は海に近い。その風流な姿は、「アメリカが見える野天風呂」と呼ばれているそうだ。ユニークな名前に、思わず笑いがもれる。
ちなみに北川温泉は、昭和初期に潜水漁の名人が海の底で藻の生えない岩場を発見、そこに湯が湧き出していたことで誕生したそうだ。漁師たちはその湯を浜まで引き、大きな岩石で風呂を造って仕事上がりの体を癒やした。それが現在の北川温泉の起こりなのだと教えてくれたのは、かつて潜水漁師だったと言う受付小屋に座っているおじさん。
湯船に使っているみごとな海の石に感心していると、さらに驚きの伝説を教えてくれた。
「ここから少し歩くと、“ぼなき石”ってのがあるんだ。それは、昔、江戸城の石垣に使うために切り出された石の名残りだ。あまりに大きいので海まで運べず、そのままになっているんだ。土地の言い伝えでは、石を運ばされた者たちがあまりの辛さを“ぼ泣き石=ぼやき石”したそうだ。その石も昔は海の底にあって、太平洋の荒波に打ち上げられたらしい」
なるほど、私もそんな大自然の驚異を、かつて目に焼き付けたことがあった。
八丈島に行った時、海岸の道脇に直径3メートルはありそうな巨大な丸い石を見つけたのだ。島の民宿の主人に訊ねると「信じられないでしょうが、あれは台風で大波が押し寄せ、海底にあった石が傾斜を転がって、道路まで打ち上げられたものです」と笑っていたのを思い出した。
長湯してノボせてしまう前に、その“ぼなき石”はぜひ見ておきたいものだ。
さっそく、おじさんに地図を書いてもらって、山手への道を歩くこと10分。こんもりとした茂みの前に6畳ほどの“ぼなき石”と石碑を発見! 「東伊豆町指定文化財」の表示がある。
かつてはこんな切り石を乗せた千石船が、黒潮に乗って、東伊豆から江戸まで航行していたのだ。壮大な歴史ロマンを語る“ぼなき石”に、思わず胸が熱くなった。
石と言えば、東伊豆のちょっとした名物なのが「ライオン岩」だ。
旅に出る前夜、東伊豆方面を訪れることを中学生の息子に話すと、以前、サッカー部の合宿旅行で下田に行った時に、バスの車窓から目にしたと教えてくれた。
135号線沿いの海に突き出した巨大な岩の頂上は、見る角度によって吼える獅子にそっくりなので、その名が付いたそうだ。
息子へのみやげ話に一目拝んでおこうかと、車の往来が増えてきた海岸道路を用心しながら北上した。
15分ほど歩くと、視界にそれらしき岩陰が見えてきた。しかし、まだまだ倍ほどの距離がありそうだ。太陽は、もうかなり高い位置にある。時計を見ると、すでに11時。額と頬に浮く汗に潮風がからんで、ネットリとしてきた。
ぼなき石からは距離にして約1.5キロ、ようやくライオン岩に到着。紺青の海と雄大な伊豆大島を背景にして、一枚の絵ハガキに使えそうな夏景色だった。
ひと息つくと、もう昼が近かった。腹も減ったし、何よりも喉の渇きが著しい。しかし、周辺には自販機も店も見当たらなかった。
ここから最も近い駅は、伊豆大川。とりあえず駅前へ向かったのだが、簡素なプレハブ造りの駅舎周辺はひっそりとしていた。
熱川、北川、大川と、東伊豆町の旅は満喫した。残された半日は、帰路に着きながら別の町を訪ねることとしよう。昼食は車中で駅弁を楽しむとして、目の前に建つこぢんまりとした店がやけに気になる。
店名は、緑色の文字で「わさび屋」。ツンとした辛さが鼻腔に甦ると同時に、このあたりに湧き水があるのだろうかと、思わず喉を鳴らしてしまった。
さっそく店へ入ってみると、みずみずしい緑の本わさびの鉢植えが座っている。商品棚には、わさび漬け、わさび味噌、夏みかんのような柑橘類も並んでいた。
店の主人らしき人に訊いてみると、「伊豆の天然水は、マイナスイオンたっぷりですよ。うちのわさび田にも湧いてますけど、ずいぶん離れた山の中だからここにはありません。ごめんなさいね。もしよかったら、湧き水で入れたお茶を飲みますか?」と嬉しいばかりの言葉だ。
伊豆がある静岡県は茶の本場、それを地元の湧き水で入れてくれるのだから、断る理由などあり得ない。夏場の熱い一杯……その芳しい香りと味わいが至福のひと時を与えてくれた。甘えついでに、水のこと、わさびのことなども訊いてみる。
伊豆のわさび田は「畳石式」という独特の構築方法で、マイナスイオンたっぷりの天然水をさらに自然濾過して使うことで、高品質なわさびを収穫することができるそうだ。東京の料亭でも使われているわさびは、ご主人と家族が育てている。
せっかくなので、家族みやげにわさび漬けを一つ。帰りの車内での酒肴に、茎漬けを買うことにした。これを楽しむ地酒についても訊いてみたが、「伊豆の酒蔵は、修善寺に一軒しかないんですよ。伊東駅の売店には、そこの小さな瓶の酒が置いてあるはず。酒蔵へ行くなら、伊東駅まで行って、そこからバスで修善寺まで1時間足らず。行けないことはないな」とツウな答えが返ってきた。
さすが、酒の肴になる商品を扱っている人物だ。
親切心にお礼を述べて立ち去ろうとすると、「これ、おまけです!」と大きな夏みかんをもらった。夏の渇きを潤すには、最高の生ジュースだ。
ちなみに、列車で一人旅をする際には、ぜひ地酒の小瓶やカップ酒を持ち込みたいものだ。
最終目的地を修善寺に決めた私は、伊東駅で駅弁を購入。夏みかんをデザートにして、バスの旅を楽しむことにした。
ちなみに弁当は、伊豆の名産である鯛を使った人気品「鯛どんたく」。わっぱ状の容器の全面に御飯が詰められ、そのほとんどを鯛の身のそぼろが覆っている。脇に入っている伊豆産の分厚い椎茸も、なかなか美味しい。
ところで修善寺は、伊豆半島のほぼ中央にある。東京からは三島駅を経由する直通の特急列車で2時間、自動車でも2時間半ほどの距離だ。
町の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃らしい。本来の地名は「桂谷」、修善寺は「桂谷山寺」と呼ばれていたそうな。伊豆きっての古刹で、やはり源氏との縁は深く、源 範頼や頼家が幽閉されたり暗殺されたりと、一族の悲話に満ちた地である。
と知ったかぶりで解説できたのは、バス車内で聞いたアナウンスのおかげである。
結局、またもや温泉のメッカに向かうわけだ。
しかし、私は帰りも各駅停車だから、悠長に湯につかってはいられない。せめて修善寺には、お参りして帰途に着くことにしよう。
昼下がりの日曜日、伊豆の空気はどこまでも澄み渡っている。
バスの向かう方角には緑濃い山並みが、青い空と白い雲をバックに映えている。吹く風の匂いも、いつしか“潮混じり”から“草いきれ”に変わっていた。
20分ほどして急峻な山道に入ると、曲がりくねった道をカーブするたび、車窓の風景は海のブルーと山のグリーンを交互に取り替えていく。
この旅のフィナーレへ向かう、最高のシーンだ。 わずかな乗客しかいないバスは、滑るようにスムーズに走って行く……また明日からは、満員電車の窓に覗く大都会の鈍い輝きが待っている……もう少しだけ、心地良いこの揺れにまどろみながら、私のきままな旅物語にひたるとしよう。
その終着点は、きっと、明日の元気の出発点になるはずだから。