Vol.129 シオマネキ

マチコの赤ちょうちん 第一二九話

「リッ……リリリ」と公園の草むらで、気の早い鈴虫たちがささやき合っていた。一週間前まで感じていたうだるような熱気も、日暮れとともに林の中に吸い込まれ、どこからか、ヒンヤリと湿っぽい風が漂っている。
足取りの重そうな松村が、それに誘われるようにつぶやいた。
「はぁ……今年の夏バテは、キツイな」
ビールと冷酒を飲み過ぎたツケと自覚しているものの、去年よりもさらに疲れはひどかった。おまけに食傷気味で、自分もそろそろ中年の坂を下りつつあるのかなと、いつになく弱気になっている。
「真知子さ~ん。何か、体にイイもん、食わしてよぉ~」
松村がわざと力なく、格子戸を引いた。途端に、そんな泣き言など知ったことかとばかり、店内では大騒ぎが巻き起こっていた。
昨日も体のダルさをいたわりあった宮部なのに、目の前でピョンピョンと飛び跳ね、額に汗を噴き出している。澤井は「こいつ、待ちやがれ!」と口走りつつ、周りの客たちと一緒にしゃがみこんでいる。
呆然と見つめる松村に気づいた真知子が、手にしている笊を押し付けた。
「ほら!ボサッとしてないで、手伝ってよ!」
真知子が目で指した先に、小さな物が群れをなして、うごめいていた。
「あっ、あれって?カニ?」
床を走りまくる数十匹の赤褐色の塊は、まぎれもないカニだったが、一様に片方のハサミが大きく、松村が見たこともない種類だった。
「これは、“ガネツケガニ”言うとです。東京では、シオマネキばい。しかし、申し訳なかことば、しました」
訛りのキツイ九州弁と日焼けた顔が、カニを手にしてヌッと現れた。
「うっ、うわわ!」
のけぞった松村が尻餅をつく瞬間、老齢なその男の手が、圧し潰される寸前のカニを取り上げていた。
30分かけて、100匹足らずのカニをマチコの客たちでようやく捕まえ、男は「いやぁ、ありがとうばい。どうも、すまんばい」と平謝りだった。
「……しっ、しっかし、な、何なのさ。どうして、活きたカニがこんなに?」
笊を抱いたまま、ぜぇぜぇと息を切らす松村に、澤井も肩で息をしながら答えた。
「こっ、この親父さん、天草さんて言うんだけど。最近、息子さんが住んでる隣町に長崎から越して来たんだって。息子さんは、長崎料理の店をやってるそうだ。そ、それで、散歩がてら築地まで行って、ちょいと時間が余ったからうろついてる内、道に迷って、真知子さんがここへ呼び込んだわけ。今さっき、息子さんに電話したよ。だ、だけど、築地で、そのヘンチクリンな活きたカニを手に入れたんだと。でもって、カウンターで自慢げにトロ箱を開けたんだけど、酔ってて、ひっくり返したんだよ!」
すると、天草は口を尖らせて「ヘンチクリンでは、なか。これは、有明海のうまかカニばい!“がん漬け”っちゅう塩辛は、最高の肴やけん」と言い返したが、「あっ……こいは失礼」と思い出したように小さくなった。
「まっ、どうにか皆さんのお蔭で片付いたし。汗もかいたことだから、生ビールでも冷酒でも、一杯サービスしちゃうわよ!」
真知子のその声に、天草をうとましげに見つめる客たちの顔が一変して、拍手が鳴り響いた。と同時に、ガラリと玄関が開いて「親父!勝手にうろつくなって、言っただろ!」と、荒々しい剣幕で角刈りに鉢巻をした中年男が入って来た。
男は天草の息子だと名乗り、せわしなく鉢巻を取ると、真知子に頭を下げた。そして、父親が手にするカニ箱を見るや「また、“がん漬け“かよ。もう、いいかげんにしなよぉ~」と頭を抱え込んだ。
真知子は「まあまあ、お掛けになって」と、息子におしぼりと麦茶を出した。息子は、有明で細々と漁師を続ける独り者の父を説得して同居したのだが、店の切り盛りで妻も自分もかまってやれないと語った。
父は有明の暮らしが忘れられず、“がん漬け”が食いたいと口走り、シオマネキを探しに築地界隈へ出て行くのだが、その都度、こんなふうに迷ってしまうとボヤくのだった。
「……じゃあ、これで失礼します。女将さん、お勘定を」
息子が気まずそうに口を開いた時、カサカサッと音がして、2、3匹のカニがカウンターの花瓶の陰に走り込んだ。
「あ~ら!まだいるわよ、天草さん……ねえ、その“がん漬け”って、食べてみたいわぁ」
真知子の言葉は、息子に従って中腰になっていた天草を席へ戻した。
「……“がん漬け”は、ガネツケガニを潰して、味噌と唐辛子で漬け込む酒の肴ですばい。しかし……すぐにはできん。一週間は待ってもらわないかん」
「女将さん、気を遣ってもらわなくて、いいですよ。それに、親父の作るのは独特のクセがあって、有明の者じゃないと……」
顔を曇らせる息子に、真知子がほほ笑んだ。
「大丈夫よ。お父さんが今飲んでた長崎のお酒、きっと“がん漬け”に合うんじゃないかしら。その地酒、ここのみんながファンなの。だから、きっとお父さんのがん漬けも……一週間後を楽しみに、お父さんをマチコのみんなが待ってますから」
「カニを捕まえた手間賃代わりに、食わしてもらいたいねぇ~♪天草のお父さん、頼みますぜ」

宮部が、長崎の地酒の瓶を撫でつつ、天草の父に嬉しげにおもねった。
「それにさぁ、得体の知れない物って、無性に食べたくなるのが酒飲みのサガですよねぇ。あっ!長崎の肴だっけ?」
松村の言葉が終わるのを待つでもなく、カウンターがし~んと静まった。
「まったく、スベる野郎だねぇ~。真知子さん、シオマネキじゃなくて、こいつのまわりには、塩撒いといてくれる」
「ま!どっちもどっち、滑ってるわねぇ~」
天草親子を囲む笑い声に誘われるかのように、花瓶の裏のシオマネキが、赤い顔をチラリと覗かせていた。