Vol.13 赤いりんご

マチコの赤ちょうちん 第一三話

 冷たい夜風が、マチコの暖簾を揺らせていた。
「うー、冷えるねぇ。真知子さん、熱いのを一本頼むよ!」
首をすくめながら入って来た辻野がカウンターに座り、手を擦り合わせた。
その夜はやけに冷え込み、東北や北海道では雪のちらついている所もあるらしく、雪化粧した山並みがニュースでも報道されていた。
「冬めいて来ましたね。もうふた月もしたら、お正月なんだもの」
そう言って熱燗の徳利を持つ真知子は、辻野が青森の北津軽出身だったことを、ふと思い出した。
「辻野さん、来年のお正月は青森に帰るの?」
「いや、帰らねえ。仕事が結構忙しくてね。年始め一番に納めなきゃいけない製品がずいぶんと遅れてんだ。まあ田舎に帰っても、婆さんが一人ポツネンといるだけだから」
はにかむ辻野は、そう言って熱い酒をぐっと飲み込んだ。ほんのりと朱を取り戻した唇から、長い息が吐き出された。
「東北は、今夜は雪みたい。津軽じゃどうなのかしら?」
「最近じゃ、めっきり雪も少なくなってね。たぶん、大したことはないさ。 昔はみんなで雪かきとか雪下ろしとかしてさ。寒さは辛かったけど、毎日が楽しかったなあ」
温まった辻野の口が、珍しくも少年時代の思い出をゆっくりと語り始めた。
稲が実る頃になると、北津軽には岩木山の山おろしが吹くと言う。その風の匂いや空気の澄み方で、土地の人たちは、今年は冬将軍がいつ頃やって来るのかを感じた。
ごく自然に雪を迎えて、雪と一緒に暮し、家族も親戚も、ご近所も、総出で冬越えの支度をする。都会では理解できない暮らしだが、古くから津軽では当たり前の習慣だった。それも今では、薄れてしまったらしい。
辻野は遠い目をしていた。
そのまなざしの先には、彼だけの懐かしい憧憬が描かれているのだろうと、真知子はしばしの間、言葉をためらった。
「みんなの以心伝心って言うか、気持ちがつながっていたんでしょうね」
「うん・・・・・・今でも俺のお袋は、親戚が変わりばんこで面倒を看てくれている。嫌味のひとつも言われたことはないけど、それを好いことについつい疎遠になってね。都会にいると、どこかへ行っちまうんだよ。田舎にいた頃の自分が。でも、それも来年の春がくれば、取り戻せる」
その言葉尻に、真知子は辻野の定年が迫っていることを悟った。
独り身の父を熊本に残す真知子自身も、無意識に料理の手を止め、我を振り返っていた。 その時、格子戸がガラリと開いて、紙袋を手にする澤井が現れた。
「いたいた。辻野さん、これ見つけたよ。津軽の赤リンゴ!」
澤井はカウンターに、三つばかしリンゴを転がした。
赤いのは当たり前だろうにと、真知子は何の変哲もないそのリンゴと澤井の顔を交互に見返した。
「おおっ!そうかい。いやー、これこそ以心伝心だな。真知子さん、見てなよ」
喜色満面の辻野は、うんとばかり両手に力を込めて、小ぶりのリンゴを二つに割った。リンゴは、その中身も赤く染まっていた。

「津軽の五所川原だけで獲れる、赤いリンゴなんだ。これを齧ると、津軽の冬の香りがしてさ・・・・・・。澤井ちゃん、ありがとうよ」
初めて見る、子どものような辻野のはしゃぎようだった。
年末も帰省しないと言う辻野のために、澤井はいつか聞いた赤リンゴの話しを思い出し、わざわざ東京中を探し回っていた。
甘酸っくてみずみずしい香りが、真知子の鼻をくすぐった。
「辻野さん。マチコのお客さんは、みんなずっと、子どものままだからね」