Vol.24 桜鯛

マチコの赤ちょうちん 第二四話

真知子の活けたソメイヨシノの枝が、カウンターに小さな春を映していた。
水野が連れて来た浅黒い顔の男は、その花びらを一瞥しては、冷酒をひと口ずつ含んだ。
男は水野の言葉に二言三言答えるだけで、会話よりもグラスを傾けることの方が好きなようだった。
肴をまったくつつかないその男に、水野は何度も料理をすすめていた。
「濱口さん、何か食べないと体に毒ですよ。さっきの店でも、何も箸をつけてなかったじゃないですか。真知子さん、今夜のおすすめって何かな?」
「今日はいい鯛が入ったの。旬だから美味しいわよ」
真知子は、ショーケースに入っている小ぶりの鯛を取り出して見せた。
淡い桜色を帯びた鯛は新鮮な産直物らしく、目の玉だけでなく鱗も光っていた。
「桜鯛だ……。鳴門鯛とも言うけど」
濱口と呼ばれる男は、自慢するでもなく、素っ気ない声と表情でそう言った。
「へえ、見ただけで分かるんですか。大したもんだ。さすがに福良の出身ですね」
そのまま続く水野のおだて言葉から察すると、濱口は得意先の人物らしく、生まれ育ちは鳴門海峡を望む淡路島の福良という港町だった。
だが、水野のお世辞に応えることもなく、濱口は黙って鯛を見ていた。
水野にとっては、なかなか取っつきにくい客のようだった。
「どうします? 塩焼きにでもしましょうか?」
せっかくの上物に興味を示さない濱口を真知子は少し嫌味に思ったが、ふとした時に見せる彼の遠い目に、言い知れぬ切なさのようなものも感じるのだった。
「ああ、そうだな。……その、小さい方でいいよ」
濱口が、ポツリと答えた。
鯛が焼き上がるまでも、二人の会話は弾まなかった。手洗いに行きがてらチラと真知子を見た水野は、「どうしようもないよ」とでも言いたそうに溜め息をついた。
皿に移された鯛はこんもりと身が盛り上がり、香ばしい匂いを立てていた。と、カウンターに出されるやいなや、濱口はいきなり鯛の身に箸を立てた。
水野も真知子も唖然とするほどの素早さだったが、厚い白身を口にした途端、濱口は「ぐっ、うぐっ」と苦しそうに唸った。
「どっ、どうしました。濱口さん、骨が刺さったんですか! 真知子さん、お水、お水」
慌てふためく水野の後ろから、辻野が飛んできた。
「そんなんじゃ駄目だ! 飯を先に飲み込んで、水を飲むんだよ! それから背中をぶっ叩いて!」
取り巻く客たちが騒然とする中、濱口は手を大きく横に振った。
「ちがう。ちがうんだ。すまん、親父を思い出しちまって」
ポカンと口を開ける客たちの前で、子どものように涙をあふれさせる濱口がゆっくりと語った。
濱口の父親は、この道50年の鳴門鯛の一本釣名人だった。
毎年桜の花が咲く頃になると、船へ乗り込む父の表情は一段と精悍さを増した。
少年の濱口には、大漁釣果に赤銅色の笑顔をほころばせて帰って来る父親が、何よりもの憧れであり自慢だった。
だが、18歳になった彼は都会へ出て行く仲間たちと同様に「こんなしょぼくれた町で、一生漁師なんかできるか!」と福良を捨て、東京へ飛び出した。
跡取りをなくしたその日、母は悲嘆に暮れた。
それでも父は黙って沖へ向かい、66歳までひたすら鯛を釣り続けた。
しかし、鳴門を知り尽くしていたはずの老練な父親に、潮流はある日突然と牙を剥いた。
一年前の春のことだった。
「あそこの渦にやられたら、船は浮かんでも、体は上がらんけんのう」
それが、父の口癖だった。
案の定、漁船は浮かんだが、父親の姿はいずこともなく消えていた。
父の跡を継がなかったことを、今にして濱口は悔やんだ。
「俺が船に乗ってたら、親父は助かっていた」と、己を責めた。
それ以来、濱口は鯛を目にすることが恐くなり、一周忌も真近というのに福良へ帰るのをためらっていた。
「カウンターに座った時、すぐに鳴門鯛だと思った。息がつまったよ。でも、あの花瓶の桜を見て、思ったんだ。親父はちゃんと帰って来てる、桜になって……。これからも毎年帰って来る。そう思って、ひと口だけ食べてみようと思った」
「もう……大丈夫ですよ」
水野が、話し続ける濱口の手を取って、座席に落ち着かせた。

「女将さん。あんたの塩焼き、うまいよ。親父の鯛の味がした。でも、鳴門の鯛に塩加減はいらない。そのままが一番なんだ」
「じゃあ濱口さん……今度いらっしゃる時は、本場の鯛がお土産ね」
そう言って、真知子が白いハンカチを差し出した。
涙でクシャクシャになっていた濱口の顔が、ようやくと微笑んだ。