Vol.6 樽ふり

ポンバル太郎 第六話

 卯の花くたしの訪れを予感させる小糠雨が、ポンバル太郎の玄関灯を路面へにじませている。
22時過ぎの人影まばらな通りを、濡れながら歩いて来たのは銀平だった。いつもなら勢いのある外股の足運びが、やけにおぼつかない。そして扉を開けると、つんのめりながら情けない声を発した。
「はっ、腹減ったぁ。太郎さん、何かうめぇもん食わしてくれよぉ」

 泣き言を洩らす銀平にニンマリしたのは、カウンター席で枡酒を飲んでいる中之島哲男だった。太郎も銀平の顔を見るや、小さく動かしている手を止めて失笑した。
「ほら、運の悪い奴が来たでぇ。銀平ちゃん、今日はもう店じまいや。火野屋から仕入れた魚も、ほかの献立やツマミも、一つ残らず売り切れてもうたわ。もう、白い飯しかあらへんで」

 確かに中之島が言うように、緑色のバランしか残っていない冷蔵ケースに銀平は唖然とし、ヘナヘナと膝を折った。
「嘘だろ~。お客さんは、二人しかいねえじゃん」
「さっきまで、あすかちゃんが勤めている角打ち出版の人たちで満席だったよ。そこにいらっしゃる笠井さんが作った杉樽に詰めた酒を、編集部のみんなで飲みに来たんだ。とりあえず杉の香りを肴に、枡酒と塩で腹を誤魔化しときな」
太郎が角に荒塩を盛った枡酒を出しながら、数少ない吉野杉の樽を手作りしている笠井社長を紹介すると、中之島と肩を並べる壮年の男が
「よろしゅう、おたの申します」
と関西弁で答え、律儀なお辞儀をした。地味なグレーの背広姿は控え目な雰囲気で、それと対照的な古代紫の作務衣を着た中之島が舐めている枡酒も、笠井の樽に詰めた酒だった。
「樽酒は、俺、どうも好きじゃねえ。匂いが鼻について、魚が美味しくねえんだ」

 腹がすくとイライラする癖のある銀平は、黄金色がかった枡酒をあからさまに批判した。
「銀平! 口を慎みやがれ。失礼だろう!」

 血相を変えた太郎が、まな板を拭く布巾を銀平へ投げつけかけた途端、
「まあまあ、ええやないですか。日本酒がお好きでも、杉の持つ“テルペン”の香りが苦手な方は、ぎょうさんいてはりますわ」

 と笠井がおだやかな目元で宥めた。
「てっ、てんぷら?」

 食い気に走ってテルペンをてんぷらと聞き違える銀平に、今度は中之島が顔をしかめた。
「ちゃうがな! テルペンや、テルペン! 杉の木にある成分で、殺菌作用や気分をリラックスさせる香りの効果もあるんや。昔の江戸っ子は気が短いよって、木桶に詰めて樽廻船で運ばれて来た灘の樽酒がストレスの緩和にもなったそうや」

 口角に泡を飛ばすような中之島の話しでは、樽廻船は大坂から江戸まで12日間くらいでやって来たが、当時は冷蔵庫など無いから酒は少しばかり古くなってしまう。それを吉野杉の樽のテルペンが抑えた。さらには船が波に揺られてる間に、真新しい杉樽の匂いも酒にたっぷりしみ込んだ。つまり、当時のうまい酒とは杉の匂いがする酒のことだった。

 含蓄のある話しに、太郎だけでなく銀平も空きっ腹を忘れたかのように聞き入っていた。
「けどね、テルペンは樽が古うなってきたら当然消えますから、いつまでも匂いが強いわけではありません」

 問わず語りながらカウンターの杉板を撫でる笠井に、銀平が思い出したように言った。
「そうだ……このポンバル太郎がオープンした頃は、すっげえ杉材が匂ってた。だって入口の扉だろ、テーブルとカウンターだろ、おまけに壁の杉板だって酒蔵の麹室にソックリだもんな」

 店内を見回しながら銀平がしゃべると、太郎は手元を動かして聞き流しながらも、一瞬、遠い目を覗かせた。
それに気づいた中之島が無言で頷きながら空になった枡酒のおかわりを求めると、隣の笠井が懐かしげに口を開いた。
「3年前、中之島の師匠からハル子さんを紹介され、吉野杉を使うポンバル太郎の内装を相談されまして……ごっつい金額になるからカウンターだけでどうやと奨めたら、『酒の神様が降りて来るような店にしたいから、本物の杉づくしでお願いします』と一歩も引かへんかった。頑固な奥さんでしたなぁ。けど、今思うと、心底から日本酒を愛してはったんですなぁ」
「えっ! この内装って、そんなに値が張るのかよ?」

 銀平が声を発した途端、すきっ腹の虫もグウと音を立てた。
しんみりとしていた雰囲気が和らぐと、太郎が手を止めて笠井に語った。
「あいつ、ヘソクリを全部はたいちまったんです。この店が完成した日は、杉の壁やカウンターを触りながら、嬉しくて泣いてましたよ。その頃の俺は不勉強で、やたら高価な吉野杉に呆れるだけでしたが……ようやく、こんなおもしろい物も出せるようになりました」

 太郎が差し出した朱色の漆塗りの皿に乗っていたのは、何の変哲もない真っ白なおむすびだった。さっきまで手元を動かしていたのは、そのせいだった。

 おむすびは笠井と中之島だけでなく、銀平の前にも二つ置かれた。
「へっ? 海苔もふりかけも無い、ただの白むすびかよ」

 銀平が口を尖らせた時、ひと口食べた中之島が何度も大きく頷いた。
「太郎ちゃん。これ、“樽ふり”を使うたな。うまいわ! これは、うまい!」
「ほう! どれどれ。うむ、酒が米の旨味を上手に引き出してる。ほのかに、酒の香りがしますなぁ。おむすびに荒塩を使うてるのも、酒の味に合わさってます」

 笠井がつられて勢いよくおむすびを頬ばると、中之島はもう二つ目を口へ運んでいる。
「えっ? おい? 太郎さん、樽ふりって何だよ!? さっぱり分からねえぞ!」
おむすびの匂いをかぐ銀平に、太郎が使い古した吉野杉のおひつを手にしながら教えた。
「炊いた米を入れてる杉のおひつに、今日だけ酒を塗ってみたんだよ。そうすると、おひつにしみた酒があったかい米の旨味を引き出すんだ。樽ふりってのは、昔、灘の蔵元が杉樽を洗うため贅沢にも酒を使った技だよ。酒の香りや味をしみ込ませ、味を良くするだけじゃなく、酒と相性が良い杉樽を大事にして長持ちさせる知恵だった……と言うのも、ハル子の受け売りだけどな」
「へぇ~! 酒をおひつに塗るなんて、太郎さんも粋な裏技を使えるようになったじゃねえの」

 意味が分かって貪るようにおむすびをパクつき、口に入れたまましゃべる銀平を中之島が皮肉った。
「酒飲みの銀平ちゃんにはぎょうさん塗り込んでるはずやけど、あんまり質が良うならんなぁ」

 途端に銀平がおむすびを喉につかえ、中之島があわてて背中を叩いた。そのようすを優しげに見つめる太郎に、笠井が顔をほころばせて言った。
「ハル子さんは、言うてました。吉野杉のカウンターやテーブルにお客さんが酒をこぼしても、それがしみ込むたび、きっと味のある店になるはずと……ようやくですなあ、太郎さん。おひつが随分くたびれてますから、いっぺん箍を締め直してみましょか。それが桶屋の仕事です」
「ありがとうございます。あいつ、きっと今、笠井さんのその隣に座って樽酒を楽しんでいると思います……それにしても、銀平は、人としての箍を締め直した方がよさげだなぁ」
 中之島に小言をもらっている銀平を目にして、太郎が苦笑しながら答えた。
 その傍へ、ほのかな酒の香りを立てる吉野杉のおひつが寄り添っていた。