Vol.65 Tシャツ

ポンバル太郎 第六五話

 梅雨明けの見えない長い雨が、ポンバル太郎の窓ガラスを曇らせている。
篠突く雨に帰宅を急ぐ人たちの影が窓越しに映っていた。それを浮かぬ顔で見つめる剣の後ろ姿が大人びてきたなと、右近龍二は思った。
カウンター席から、龍二が剣を気づかって話しかけた。
「今年は梅雨が明けたら、また暑くなるらしいよ。ゲリラ豪雨も続くのかなぁ」

 手持ちぶさたな剣は小さく頷くと、長いため息を吐いた。店内にいるのは龍二と平 仁兵衛だけである。平にぬる燗の山廃純米酒のお銚子を傾ける太郎は、もうすぐやって来る中之島 哲男と火野銀平の箸揃えを剣に用意させた。

 いつも通りのんびりした週初めだが、今日は剣の12歳の誕生日である。むろん、龍二も平も素知らぬふりをして、サプライズの贈り物は剣に内緒だった。

 自分の誕生日にも無頓着なほど店を手伝う剣は、一年前には銀平から
「馬子にも衣裳じゃねえけどよ、まったく、可愛げのねぇ小学生だぜ」
と火野屋と同じ黒のTシャツに“ポンバル太郎 剣”と白抜きしたのを贈られた。以来、それを着るのが楽しみで店に出ているが、この一年で5㎝も伸びた背丈や胸まわりが窮屈そうだった。それでも、袖口が伸びるぐらいに着込んでいる。
中之島たちが遅れているのは、そのTシャツに変わる服を手に入れるためだった。
二度目のため息を剣が吐いた時、扉が鳴子の音を響かせた。荒っぽい開け方に、龍二は銀平たちだとニンマリしたが、現れた二人は顔色がすぐれない。
「いらっしゃい! 銀平さんと中之島さんが揃って来るなんて、珍しいね」

 剣がおしぼりを用意すると、銀平は「ああっ、ちょいと野暮用でな」と生返事をしながら、龍二に下唇を突きだして首を横にふった。二人は手ぶらで、どうやらプレゼントを持参してないようである。
「銀平さん、どうしたんですか!? あんなに、任せとけって自信満々だったじゃないですか」
「それがよ、あすかが余計な口を挟みやがってよ。ちょいと遅れちまうんだよ!」
「余計な口って、どういうことすか?」

 小声で耳打ちし合う二人に、おしぼりを手にしたままの剣が
「隠し事かよ、気分悪いなぁ。もう、知らない!」
 とカウンターに押しつけると、平の横に座った中之島が聞こえよがしな咳払いをした。
「剣ちゃん、あすかちゃんがもうちょっとしたら来よる。偶然、かっぱ橋で逢うたんや。席を用意しておいてや」
「かっぱ橋? ふぅん、あすかさんが道具屋筋に行くなんて、珍しいね」

 中之島はそれに答えず、盃を手にしたままの平の耳元へ何事か囁いている。

 愛想のない面々に不審げな剣へ、黙っていた太郎が口を開いた。
「おい、剣。そのTシャツ、ずいぶんチンチクリンになっちまったなぁ」
「うん、そうなんだ。だからさ、俺、おこづかいで欲しかったTシャツを買っちゃったんだ。先週、カッパ橋で! 誕生日を過ぎたら明日から着ようと思って、隠してあるんだよ」

 剣が喜色満面で答えると、途端に「ええっ!」とカウンターの四人が声を上ずらせた。

 どぎまぎするその声も耳に入らない剣は、壁際に寄せた椅子に立つと、背伸びをして酒神の松尾大社の神棚と並ぶ浅草神社の神棚の後ろから紙包を取り出した。
舞い上がる埃の渦が店のダウンライトの中でうごめくと、太郎が叱りつけた。
「この野郎、そんな所に置いちゃバチが当たるじゃねえか!」
「大丈夫だよ。母ちゃんだって、『験かつぎに、御利益をくれるよ』って、よくやってたじゃないか」

 確かに、ハル子が割烹着を新調する時は必ず神棚の裏に置いて、縁起の良い日に袖を通したものだった。太郎もやっていたのに、その所作を忘れてしまっている自分に苦笑するしかなかった。

 またもや店内が静まると、苦しまぎれに銀平が声を上げた。
「とっ、ところでよ! おめえの買ったのは、どんなTシャツなんだよ?」

 おしぼりで顔をせわしなく拭く銀平に剣が包みを開いて見せると、江戸時代の火消しの纏いにそっくりな柄が現れた。
「へっへ~、なかなか粋なデザインでしょ? これ、臥煙(がえん)Tシャツっての。臥煙は火消しのことだよ。僕は江戸っ子だし、日本酒と和食に携わるならやっぱりコレでしょ! 外人さんにもウケそうだし」
Tシャツを広げると前後ろの大紋の意匠に「酒」の字が描かれ、その下地の部分は元来江戸の火消しである臥煙の朱色に染まっていた。

 あんぐりとする中之島が
「おいっ、銀平ちゃん! あすかちゃんの読み通りやないか」
 とTシャツに目をしばたたいている銀平の頭を引っ叩いた。
それに続けて平が「剣君、やりますねぇ」と頷き、顔をゆがめる銀平の背中をついでに引っ叩いた。
「ちょっと先輩方、いいかげんにして下さいよぉ」

 銀平が情けない声を洩らした時、玄関が開いて高野あすかが飛び込んで来た。
「お待たせ~! あっ、剣君。やっぱり神棚に隠してたのは、臥煙Tシャツだったね。実はさ、私たちからのプレゼントも同じなの。柄が少しちがうから、良かったわ。今度は伸びないように、二枚を着まわしてね」

 あっけにとられる銀平とようやく事の次第を呑み込めた龍二の言葉を、中之島が代弁した。
「あすかちゃん、なんで、臥煙Tシャツがええと思うたんや? かっぱ橋でわしらと出くわした時、これしかないと解ったんかいな?」
「母性本能かなぁ。半月ほど前にTシャツがくたびれてるって剣君に言ったら、もう次の衣装を用意して神棚に納めてるけど、誕生日になったら新調するって答えたんです。どんな衣装かはまだ秘密だけど、ハル子さんも気に入ってくれるはずって剣君は答えたわ」

 あすかは、亡きハル子が浅草の三社祭りで女纏いを振っていたと、以前、太郎から聞いたことに触れた。その神棚に向かって、剣が「あと半月、御利益をお願いします」と手を合わせる姿に、ピンとくるものがあった。それに、剣が去年銀平にもらったTシャツが型崩れするまで使い込んだのは、火野屋の粋と、いなせな銀平が本当に好きだからで、ハル子も同じ気持ちだったのではないかと察した。
しかも銀平はいつも帰り際に必ず二つの神棚を拝んで帰ると、あすかは言い足した。

 珍しく真顔のあすかの視線に、銀平の耳たぶが火照った。
「へへっ! よせよ、照れるじゃねえかよ。そりゃお前、江戸っ子のけじめってか、神仏への礼儀ってもんだろうがよ」

 思いがけないあすかの物言いに、中之島と平、太郎までも声がない。
「あすかさんが、銀平さんを褒めそやすなんてね。明日は、大雨じゃないすか」

 龍二が口元をほころばせると、剣も続けた。
「すぐに図に乗る銀平さんのオヤジキャラは、僕、嫌いじゃないよ。ともかく皆さん、どうもありがとうございます。特に、あすかさんはね」

 ハル子への追慕をそこまで察していたかと、剣は少し鼻先を赤くした。それを察したあすかが剣にウインクをして、大仰にプレゼントの包みを渡した。
「こっちの臥煙Tシャツは別誂えで、ひと味ちがうんだよぉ!」

 剣が包みを開くと、Tシャツの胸の意匠に“ぽ”と白く抜かれていた。
「ギャハハ、ぽっ!? ってのは、なんでぇ。笑わせやがる」

 鼻で笑う銀平だったが、まわりの面々は生真面目な顔で凝視して
「ポンバル太郎だから“ぽ組”ですか。こりゃぁ、粋ですねぇ。おもしろい!」
 と平が感心すると
「うむ、剣ちゃんだけやなしに、わしも欲しいな。お客さんにも広めたらどないや。ええ宣伝になるで」
 と中之島が太郎に投げかけた。
「うん! これは僕もウケると思うな。ありそうでない“ぽ組”だから、記憶に残りますね。母ちゃんにも、きっとバカウケだよ」

 剣が三社神社の神棚へ臥煙Tシャツの“ぽ”の意匠をかざすと、あすかが瞳を潤ませた。
「おっほん! あすか、よく見りゃいい柄じゃねえか。俺も、欲しくなったぜ」

 銀平がしらじらしく声をかけると、あすかの顔が豹変して、しめたとばかりほくそ笑んだ。
「あ~ら、そうなの。じゃあ、さっき小馬鹿にした罰として常連メンバーの臥煙Tシャツ、銀平さんに全部買っても~らおっと」
「ち、ちょっと待ってくれよ。なぁ、太郎さんも一緒だよな」
 及び腰の銀平は、太郎へ助け舟を求めたが
「あれぇ。銀平は、粋な江戸っ子だろ。だったら、けじめが大事だよな。けじめがよぉ」
 とあしらわれた。
「そ、そうか……いやいや、この件はそれじゃねえよぉ」
 失笑を買ってばかりの銀平だが、剣は臥煙Tシャツが一番似合うのは、優柔不断だけどお人好しで真っ正直な彼だと思った。
「……そんな銀平さんを、いつも母ちゃんも見てるよね」
 ぽ組の意匠に、剣はこっそりと両手を合わせた。