Vol.87 前掛け

ポンバル太郎 第八七話

 デパートの歳末大売出しが盛況を迎え、新宿や渋谷には気ぜわしい空気が漂っている。年末へ向けて上野のアメ横も賑わい出したと、スポーツ新聞が報じていた。
だが、ポンバル太郎のカウンター席でそれに目を通す火野銀平は、浮かない顔である。ぬる燗の純米酒を注いだ盃は、もう冷めてしまっている。
「アメ横に昨日注文伺いに行ったものの、去年より数は減っちまったよ。増えたのは、伊勢屋だけだった。正月に欠かせねえマグロやブリが高値だし、今年は災害や事件があったせいか、お客さんの財布の紐が固ぇんだとよ。景気よく買ってくのは中国からの観光客だけだって、伊勢屋の大将もボヤいてたぜ」

 伊勢屋は太郎も通う老舗の魚屋で、ポンバル太郎の鰹節や昆布といった乾物を任せている。銀平に紹介され、その品物の良さと気風のいい値段が気に入った平 仁兵衛も贔屓客の一人である。

 平が、その伊勢屋の昆布ダシがしみた蕪の煮びたしを食べながら言った。
「あの大将は験を担ぐタイプですから、きっと不景気風を吹っ飛ばす大安売りを考えてるんじゃないですかねぇ。これは、晦日が楽しみだ」
「ちげぇねえ。伊勢屋の松阪さんはアメ横でも知られた人情家だからな」

 頷く銀平が、盃の純米酒を飲み干した時だった。
「おう、太郎さん! テーブル席で二人、用意してくんねえ」

 講談師のようなざらついた声が、玄関から飛んで来た。鳴子の音すら消してしまうほど店内に響いたのは、まさに伊勢屋の松阪の太い声だった。
その威勢に圧倒された客たちが、いっせいにふり向いた。洗いざらしのジーンズに黒いダウンジャケットを着た男が立っている。
あんぐりとしている銀平の隣で、平が目を丸くした。
「おおっ! 松阪さん。“呼ぶよりそしれ”ですねぇ」

 角刈りの白髪頭だが、歳はまだ55歳。脂光る額と鼻っ柱、厚い胸板が松阪のバイタリティーを伝えていた。
そのいかり肩の後ろに、坊主刈りに引き締まった体の男が見え隠れしている。二十代半ばとおぼしき若い男は松阪の次男坊・太蔵で、12月というのに白いTシャツに革ジャン姿だった。
「珍しいですね、松阪さんがこんな忙しい時に来るなんて……何かありましたか?」

 松阪に投げかけながら太郎が一瞥すると、太蔵の視線は日本酒の冷蔵ケースに貼りついていた。一心に魅入っている息子の横顔に、松阪は肩を落としながらため息を吐いた。
「まったく、日本酒を見つけると、途端に目の色が変わりやがる。太郎ちゃん、こいつ、日本酒の蔵人になりてえて、その一点張りでよ。だけど、うちの手伝いも満足にできねえ野郎に続くわけねえ。それで、蔵元に詳しい太郎さんに意見してもらおうと思ってよ……親バカな頼みで、面目ねえ」

 白い頭を掻く松阪に知らぬ顔の太蔵は、まだ酒瓶に目を泳がせていた。
礼儀がなっていない太蔵へ、銀平はいらだちの色を浮かべた。
伊勢屋へ納品する時、太蔵と顔を合わせることもあったが、素っ気ない態度を目にするたび苦言を口にしかけては堪えた。
だが、のっぴきならないようすの松阪に、銀平は辛抱しきれなくなった。
「おい、太蔵さんよ。あんた、もういっぱしの大人だろ? ちゃんと挨拶ぐれえできねえのか。会釈のひとつもできねえんじゃ、職人社会の酒蔵で務まるわきゃねえぞ」
「古いなぁ、火野屋さん。俺が行きたい飛天酒造は、そんなにお堅い蔵元じゃねえよ。若い蔵人を育てるために自由な雰囲気で、古臭い習わしや規則も変えてるって蔵元だ。採用枠もまだ残ってるし、太郎さんへ相談しなくたって大丈夫さ」

 太蔵は煙たげな表情を覗かせながら、店内の杉板の壁を見つめた。そこには、飛天酒造のロゴと天女の絵を染め抜いた紺色の前掛けが広がっていた。飛天とは中国の天女のことだと、太蔵は付け足した。
「あれ、欲しいなぁ。ねえ太郎さん、あの前掛けってもらえない? 来年、飛天酒造へ入る前祝いに欲しいな」

 話しの流れを見ていたテーブル席の客たちが、太蔵の傍若無人さ、面の皮の厚さに飽きれていた。
「……悪いが、あれは俺がどうこうできる物じゃねえんだ。小学生の息子が蔵元と文通して、手に入れた前掛けだからね」
太郎が冷淡な口調を返すと、太蔵は臆面もなく笑い返した。
「へぇ、今どき文通してんの? 変わった息子さんですね。小学生でも、今じゃLINEをやるでしょ」
店内が、水を打ったように静まった。
銀平の口から、歯ぎしりとつぶやきが洩れ聞こえた。
「ぐ、ぐぐ……図に乗りやがって」

 今にも怒鳴りそうな銀平の肩を、静観している平の手が押さえた。だが、その厳しい目つきが親である松阪を咎めていた。
居場所がないほど恥をかいた松阪が、鼻息を荒げた。
「この大馬鹿野郎! ええい、もういい! 帰ぇるぞ」

 テーブルに座りもしないまま、赤面している松阪は踵を返そうとした。
その時、剣が階段をかけおりてきた。タイミングが良すぎるのは、二階で聞き耳を立てていたにちがいなかった。
不安げなテーブルの客たちに反して、平は賢い剣の機転に期待した。
「僕、あげてもいいけどさ。条件があるよ!」

 肩越しに聞こえた剣の声に、帰りかけていた太蔵がふりむいてニンマリした。何度か太郎と伊勢屋へ買い出しにやって来ていた小学生の剣を、太蔵はなめてかかった。
「何だい? 剣ちゃん、言ってみてよ。何なら、前掛けの代金を払ってもいいぜ」
「お金じゃないよ。僕は、飛天酒造の隣に並べてる金剛醸造が好きなんだ。どっちも今、話題の吟醸造りの蔵元で、関東の飛天、関西の金剛って双璧でしょ。僕は大学を卒業したら、金剛酒造へ入って酒造りがしたい。だから、それまで太蔵さんは飛天酒造で頑張ってよ。そして僕が金剛酒造に入ったら、いつか、お互いの造った酒で勝負すること。僕からの条件は、ぜったいに途中で、太蔵さんが飛天酒造を辞めないことだよ。それができなきゃ、あの前掛けはあげない」

 剣が、壁に並ぶ前掛けを指さした。

 不機嫌そうな太蔵に向かって、松阪が鼻白んだ。
「すっかり見抜かれてるじゃねえか、生半可なお前の性格をよ。てぇしたもんだぜ、小学生なのに、お前よりよっぽど男ができてらぁ」

 実際、太蔵は大学を出たものの、経験した二つの会社をブラック企業と決めつけ、結局は実家の伊勢屋に転がり込んでいる。それでも日頃の仕事がおもしろくなさそうなのは、伊勢屋に出入りする銀平や太郎も感じていた。
「うるせえな! 蔵人になるのは俺の夢なんだよ。うちで魚や乾物を売るのとは、わけがちがうんだよ!」

 太蔵は、父親譲りの太い眉毛を吊り上げて激高した。それを聞いた銀平がお銚子の残り酒をガブ飲みして、立ち上がった。
「いや、ちがわねえよ。太蔵さん、前掛けってのは単に手を拭く道具じゃねえ。その店の暖簾と同じだ。職人の魂がこもってんだ。あんた、伊勢屋の前掛けを大事にしてねえだろ? いつだって汚れたままで、だらしねえ締め方をしてっだろ。そんなあんたが飛天酒造の前掛けを大事にできるのかって、剣は暗に訊いてんだよ!」

 銀平の強い語気に平が黙って頷くと、太郎はほっとしたように小さな笑みを口端に浮かべた。得意先だろうが敢えて言わねばならないと腹をくくった銀平に、客たちは胸の中で拍手をしていた。
松阪の目は、銀平にすまないと詫びていた。
太蔵は顔を真っ赤にしたまま、うつむいていた。もはや、剣を見下げるような余裕は消えていた。
「おい、太蔵。ぐうの音も出ねえか……血は争えねえもんだなぁ。情けねえ話だが、俺も若ぇ頃は伊勢屋の前掛けをするのが嫌いでな。江戸時代から“伊勢屋、稲荷に、犬のクソ”って言葉があってよ。伊勢屋ってのは、それほどざらにある名前で、カッコ悪いと思ったもんだ。だがよ、そんな店でも贔屓にしてくれるお客さんがいる。だからこそ松阪家は、百年も上野で商売をやってこれたんだ。お前みたいに前掛けを粗末にしてっと、バチがあたらぁ」

 松阪がようやくテーブル席に腰を下ろしながら、太蔵の頭を武骨な手で叩いた。

 父親が初めて打ち明けた話に太蔵は動揺していたが、太郎が蕪の煮びたしと飛天酒造の純米酒を運ぶと、ハッとして顔を上げた。
「あの前掛け、飛天酒造に入ったら蔵元から直接もらいなよ。それでなきゃ、本当の前掛けの意味はねえだろ。だから来年の春までは、伊勢屋の前掛けを大事にして働くんだ。松阪の親っさんの魂を受け継いでる、息子なんだからよ」

 太蔵は小さく頷くと、照れくさそうな父親に銘酒「飛天」のお銚子を差し出した。松阪の盃に注がれた酒に、親子の苦笑いが揺れた。
 太郎の後ろで、剣がつぶやいた。
「よかったぁ。内心、ヒヤヒヤしてたんだ。あの前掛け、僕のお宝なんだもん」
 すると、松阪親子を見つめていた銀平がうれしげに言った。
「飛天酒造って、そんなに有名なのかよ。じゃあ剣、俺にくれよ。俺は火野屋の前掛けを大事にしてるぜぇ」
「やだよ、こんなに腹が出てる銀平さんだと、天女の絵が台無しじゃん。飛天じゃなくて、布袋だよ」
 剣が、銀平のメタボな腹回りを叩いた。
「うっ、うるせえ! 勝手にさわるんじゃねえ、この野郎!」
 どっと笑いの沸く店内を、前掛けに描かれた飛天の笑みが見下ろしていた。