歴史背景

榮川酒造株式会社

龍ヶ沢湧水

日本の名水百選にたどりついた、蔵元の先見と英断

会津若松市内から車で北上すること30分、新緑が萌える田園風景の先には磐梯山の稜線が春霞に見え隠れしています。その手つかずの広大な山麓に、榮川酒造㈱の30,000坪にもおよぶ敷地が広がっていました。深い森を背にする巨大な昭和蔵、平成蔵を含める建屋の面積は1,500坪。大自然に包まれる圧巻のスケールに、取材班は目をみはるばかりです。

「当社は平成元年(1988)、ここ磐梯町に蔵を新設しています。それ以前は、初代の蔵元・宮森 榮四郎(みやもり えいしろう)が明治2年(1869)に酒造店を創業した会津若松駅前の一等地で、120年間にわたって操業しておりました。移転した理由は、会津若松の市街地開発によって井戸水の水質が変化することを、5代目の久治(ひさはる)が危惧したのです」

そう語るのは、榮川酒造㈱ 取締役社長の成田 惠一(なりた けいいち)氏。榮川酒造一筋に45年間勤めてきた、生え抜きの蔵主です。ちなみに現在の榮川酒造の経営は令和3年(2021)6月の第三者割当増資により、株式の持ち株比率が東北地区でリージョナルスーパーマーケットを展開する㈱リオン・ドールコーポレーション81%、東京に拠点を置く㈱ヨシムラ・フード・ホールディングス19%となって、いわゆるM&Aによる再スタートを切っています。

広大な榮川酒造
多くの建屋が連なる
成田 惠一 取締役社長
榮川の暖簾

では、成田社長の解説をもとに、榮川酒造の歴史を紐解きましょう。

「徳川家親藩であった会津の町には、江戸時代より幾多の酒蔵が営んでいましたが、榮川酒造の創業は明治維新時で、いわば後発の蔵元です。初代の宮森 榮四郎は、実家の宮森酒販店から分家し、酒造りを始めました。当初の規模は100石にも満たない、町内で消費されるぐらいの小さな酒蔵だったようです」

なるほど、明治2年(1869)に誕生したと聞けば、新政府が全国的に酒蔵の新設を推進した税収策が思い浮かびます。政府は新しい税制として地租改正を導入、田畑を解放された全国の農民から地租(現在の固定資産税)を徴収し、国家の大きな歳入に組み入れていました。しかし、ほとんどの農民は地租の意味を理解できず、ようやく藩政の年貢が廃止され自分の土地になったのに、どうして金を払わなければいけないのかと納めませんでした。

結果、政策に大失敗した政府は大衆が日々消費する酒に目を付け、酒税を歳入の4割に組み込もうと、急速に国内の酒造りを推進したわけです。

おそらく初代の榮四郎もその波に乗って、酒販店であった実家との連携から酒造りを始めたのでしょう。

初代・宮森 榮四郎の肖像

「私の聞き及ぶところでは、初代の榮四郎は正義感が強く、頑固で真面目。道理の通らないことが大嫌いで、横柄な取引相手とは喧嘩するのもしょっちゅうだったそうです。会津人らしい“ならぬことは、ならぬもの”を、地でいく性格だったのでしょう。その一方で、天稟の感性と勘どころの良さから、会津の清酒品評会審査員に任命されていました」

初代・榮四郎の逸話は、自身が務めた頃の当主である宮森家から聞かされたと、成田社長は懐かしみます。

明治から大正期、榮四郎は酒造りに対して誠実でしたが、真っ正直すぎて、商いは上手ではなかったそうです。しかし昭和12年(1937) 、3代目・榮四郎の頃に東北品評会名誉賞を受賞。会津若松での榮川酒造の名声は高まり、当時の販売石数は2,000石に達します。
3代目・榮四郎は、祖父や父の代で伸び悩んだ榮川酒造を躍進させたいと、旧制中学在籍時の15歳の時から蔵へ入り、酒造りを手伝っていました。その結果、品質へこだわり、銘酒「榮川」の売れ行きは飛躍的に向上していったのです。

昭和18年(1943)には、太平洋戦時下の企業統制により若松酒造㈱の榮川工場に配置されますが、戦後の復興によって昭和28年(1953)、榮川酒造㈱が復活・設立され、榮四郎は代表取締役社長に就任します。そして、高度経済成長時代の清酒消費の向上によって、ピーク時には販売石数が20,000石に達しました。
「私が製造部で勤務していた昭和55年(1980)頃、瓶詰工場の前には10tトラックが陸続とやって来まして、商品出荷を今や遅しと待っている状況が連日続いていました」
当時、蔵人として駆け出しだった成田社長は、榮川酒造の最盛期を振り返ります。

3代目・宮森 榮四郎の肖像
昭和時代の酒造シーン
昭和時代の酒造シーン
昭和時代の酒造シーン

昭和末期、業績が伸びる中、5代目・宮森 久治(みやもり ひさはる)は製造設備の改善、そして前述の会津若松市内の地盤変化による水脈を思案し、良質な醸造用水を探して会津一円を歩き回りました。そして、ついに名水を発見します。

会津若松市内を見晴るかす磐梯町には慧日寺(えにちじ)がありますが、この伽藍には9世紀頃、約4,000人の僧兵が暮らしていたと伝わります。榮四郎は「集落あるところに名水あり」と、秀逸慧眼さを発揮して調査。やはり、酒造りに最適な超軟水が湧いていたのです。

そして、この地に蔵を移転すると決めた直後、なんと水脈は環境庁の日本名水百選「龍ヶ沢湧水」に指定されました。もし、先に名水百選に選ばれていたなら、蔵の移転は叶わなかったことでしょう。久治の英断に脱帽です。この龍ヶ沢湧水の成分については、後述する水・米・技の章で杜氏から語ってもらいましょう。

5代目・宮森 久治の肖像
龍ケ沢湧水
蔵内の井戸
洗米や浸漬で、仕込み水を使うシーン

さて、平成時代には、超軟水を手に入れた榮川の品質はさらに磨かれ、特定名称酒が充実していきます。

市場は県外や関東一円にも広がり始めますが、平成23年(2011)東日本大震災が発生。その影響と被害は福島県産の米を原料とする地酒にも及び、榮川酒造の製造量も減少。現在は2,800石前後となっていますが、冒頭に紹介したM&Aでの復活に期待がかかっています。

「福島県は、令和4年BYの全国新酒鑑評会における10年連続金賞最多受賞がかかっており、当社も心待ちにしています。ようやくコロナパンデミックも治まり、海外からのゲストが会津福島へいらしてますので、今後は“オール会津”をテーマにした商品を開発し、インバウンドのお客様にも榮川を知って頂き、海外市場へ展開してまいります」

震災からの復興は少しずつですが、榮川酒造は会津酒の誇りを自恃し、世界を狙う。その戦略については、次の蔵主紹介の章にて成田社長にうかがうこととしましょう。

榮川 特定名称酒のラインナップ
令和2年度の金賞賞状
モンドセレクションの受賞盾