Vol.60 ささ

ポンバル太郎 第六〇話

 外国人観光客だけでなく、東京や西国からの観光客で京都の四条河原町はごった返していた。踵をつめる人群れの中を進む太郎は、溺れるように右往左往する剣の手を引っぱりながら
「こりゃ、人種の坩堝だな。酒に酔っちまう前に、人に酔っちまうぜ」
と独りごちた。

 ゴールデンウィークを利用して、太郎はかねてから剣が望んでいた京都の太秦(うずまざ)映画村へ一泊二日の旅に出ていた。初めて目にした大がかりな撮影セット、エキストラの雑踏や人いきれに剣よりもむしろ太郎が興奮した。
この時期の京都は、ホテルや旅館だけでなく民宿さえも予約できないほど活況するが、大阪の中之島 哲男の口利きもあって、祇園の料理屋『若狭』の女将・仁科美江の離れに泊めてもらうことになっていた。
「おい、剣。祇園の料理屋に泊まれるなんて、一生に一度あるかないかの経験だぜ。ありがた~く思って、くれぐれも粗相のねえようにな」

 東京を出る前夜、ポンバル太郎のカウンターに座る火野銀平から諭された言葉を、剣はくたびれた足取りながらも耳奥に繰り返していた。

 ようやく、江戸時代さながらの白川の流れのほとりに出ると、小さな格子戸のぼんぼりに「若狭」と墨書きされた古い町屋が見えた。その玄関の御影石に打ち水をしていた前掛け姿の美江が、太郎たちの足音に顔を向けた。
「まあまあ、ようこそお越しやす。剣ちゃん、疲れはったやろうねぇ。太秦には、ぎょうさんお客さんがいやはったやろ?」

 荷物を受け取ろうとする美江に、剣ははっと手を止めて、銀平の言葉を思い出した。
「大丈夫です、自分で運びますから。それと、お世話になります、よろしくお願いします」
「あらまぁ、ようでけはりましたな。いやぁ、しっかりしてはるわ。太郎さんも安心やねぇ」

 目を細めて感心する美江に、太郎が謙遜してお辞儀を返した時、三人の後ろから細高い女性の声がした。
「女将はん、いつもおおきにぃ」

 次の瞬間、太郎と剣の視線が釘付けになった。白塗りにだらりの帯をした舞妓が、真っ赤な紅をさした口元でほほ笑んでいた。
「ほう、本物の舞妓さんだぁ。可愛いですねぇ」
「あら太郎さん、舞妓ちゃんは初めてどした? 今晩、うちの御座敷にも来てくれはる梅花(うめか)ちゃんどす」

 どぎまぎとして目をみはる太郎に美江が笑みをこぼしながら紹介すると、梅花は艶っぽさより、初々しいしなを作って小さく首をかしげた。

 ぎこちなさが太郎にはあどけなく見えたが、剣は何かに憑りつかれたかのように呆然として梅花を見つめていた。
「剣ちゃん、どないしやったん? あらま、梅花さんに一目惚れしはったかしら?」

 美江が冷やかすと、正気に戻った剣はバッグを胸に抱えるや、格子戸の中へ逃げるように入った。それを笑う美江と太郎の声を背中で聞きながらも、剣の胸は高鳴ったままだった。

 梅花の白塗りとおちょぼ口の紅が、瞳に焼きついて離れなかった。

 太郎たちの離れは食事と宿だけのサービスだったが、こぢんまりとした檜風呂、隣の屋敷から聞こえてくる三味線や小唄も剣には新鮮で、都会にありながら喧騒を忘れさせる庵のような離れが不思議な世界に思えた。

 湯上りにうたた寝する太郎を部屋に残し、離れの手前にしつらえた坪庭を眺めていた。

 在りし日の母のハル子が「京都の坪庭が好き」と旅行雑誌を手にして語った記憶を、剣は思い出した。すぐ傍に、ハル子が佇んでいるような気がした。
「こんばんは。どうしはったん?」

 突然の声に驚いた剣が30センチほども飛び上がると、白塗りの手が声を上げそうになる口をふさいだ。剣が息苦しげに顔を向けると、梅花の紅い唇が「しぃ~」と黙るように諭した。
「びっくりしやはった? ごめんなさいね……そうやったの、この離れにお泊りやしたの。ぼんは、女将さんの大事なお客さんやねぇ。ここは、よほどのお客さんやないと、お泊りはでけしまへんえ。なぁ、ぼん。さっきはうちの顔をじいっと見てはったけど、何でどすか?」

 坪庭をほのかに照らす灯篭の明りが、梅花の白い肌とえりあしにかがよっている。ほんのりと甘いおしろいの匂いを感じた剣は、一瞬はにかんで、答えをはぐらかした。
「ぼんじゃないです……剣です。だけど、梅花さんはどうしてここへ?」
「今、お座敷のお客様が『ささ』が欲しいて言わはるから、『坪庭にあるから切って来よし』てお姉さんに言われてん」

 舞妓といえどもまだ少女の面影を残す梅花は、弟を見つめるかのように剣の表情を覗き込んだ。
「ささ? って、この笹の葉っぱですか? そんなの、お客さんはどうするつもりなの?」

 坪庭に伸びている笹の葉を指さしながら剣が訊くと、梅花がクスッと笑った。
「ささは、葉っぱのことやあらしまへん。お酒のことどす。昔から京都の御公家や仙洞御所にいやはった女房が使った隠し言葉どす。ほかにも、和菓子のお団子は『いしいし』、お豆腐は『おかべ』、鯉を『こもじ』と言うたり、いろいろおすえ」

 梅花は坪庭の笹を剪り鋏で取りながら、笹の葉を酒の片口に浮かべて飲むのは京都では養生のためだったと語った。
「なるほど、高貴な人たちの共通用語ってわけか。剣、また一つ、いい勉強になったな」

 いつの間にか二人の後ろに立つ太郎は、梅花の面差しやしぐさに穢れのない人となりを垣間見ていた。

 その時、廊下の先から正絹をまとった美江が近づいて
「梅花ちゃん、油売ってんと、早う御座敷へ戻りなはれ」
 ときつく諭した。
「あっ、ごめんやす」

 笹を手にする梅花は剣を名残惜しげに一瞥すると、帯を小さくたくし上げながら御座敷へ戻って行った。
梅花の手から落ちた一枚の笹の葉が、ヒラリと舞いながら剣の足元へ止まった。
「あの子は東北から二年前にやって来ましてなぁ。ようやく京言葉や作法に馴染んで、新米の舞妓になったばかりどす。見習い期間の“仕込み”は、この世界では誰もが通る道どすけど、まだ娘ですよって、剣君を見て故郷の弟を思い出したんどっしゃろなぁ」

 つぶやく美江に、太郎がなるほどといった表情で頷くと、剣が笹の葉を拾って言った。
「父ちゃん、俺、来年からも、ここへ泊まりたい。それで、いつか酒を飲めるようになったら、梅花さんと御座敷でささを飲むんだ」

 気持ちの高ぶっている剣に太郎は苦笑いしつつも、知らぬ間に逞しくなっている息子を感じていた。
「あらまあ、これは大した男はんになりまっせえ。けど、剣ちゃん。早う祇園に遊びに来ておくれやっしゃ。そやないと梅花ちゃんも、いずれは、あてのようなうば桜になってしまいまっせぇ」

 ぬるんだ京都の夜風が坪庭に吹き込んで、ふわりと飛んだ笹の葉が美江の袂に寄り添った。
「太郎はん、ささを飲みまひょか」
「ええ……梅花さんも御座敷を上がったら、呼べませんか。ただし、剣はささ茶だぜ」

 太郎の言葉に美江が任せなさいとばかり胸をポンと叩くと、剣が嬉しそうに笑顔をほころばせた。