

その昔、伏見の酒造りは、主に京都北部からやってくる但馬杜氏や兵庫の丹波杜氏などに担われていました。しかし、近年は蔵元の企業化にともない年間を通して働く社員制へと変容しています。
玉乃光酒造もその一社ですが、酒造りを束ねる杜氏には、やはり一流の匠の技量と経験が重要。さらには、若い社員の教官的な能力も必要不可欠です。
その大役を蔵元から依頼され、はるばる石川県の能登より玉乃光酒造へやって来た人物が、松本 喜四志(きよし)製造技術部長 です。
もちろん通年勤務の社員ですが、実は関西の蔵元では希少な、能登流の杜氏なのです。
「輪島市の出身で、16歳の時から酒造りにたずさわってきました。杜氏になりましたのが30歳。石川県の蔵元での酒造りが長かったのですが、3年前より玉乃光酒造でお世話になっています。能登の酒と言えば、飲み応えを感じる濃醇な味わいを想うでしょうが、私が追求してきたのは、穏やかな風味とキレの良い純米酒。つまり、旨味や酸を控えめにしていますから、誰にでもスムーズに飲んで頂けると思いますよ」
62歳を向かえた松本部長は、この道46年の大ベテラン。しかも、石川県で初めて吟醸造りを手がけた人物の一人とのことで、興味しんしんのインタビューとなりました。
まずは、能登流の松本部長は、玉乃光酒造の酒造りについてどのように取り組んでいるのか気になるところ。
単刀直入に、伏見の酒についての実感を訊ねてみました。
「正直なところ、伏見の蔵元がこれほど純米酒造りに心血を注いでいるとは、恥ずかしながら存じませんでした。能登は、情報が遅いですからね(笑)。ですから、伏見の酒は上撰や下撰、本醸造などが占めていると思っていたのです。ところが当社の酒を初めて口にした時、美味しさに驚き、まだまだ品質を上げることができるぞと感じ、依頼をお受けすることにしました」
伏見というメジャーな醸造地にありながら、玉乃光酒造が純米酒に徹した蔵元であることに、松本部長は痛く共感共鳴したそうです。そして、市場にはさまざまな吟醸酒やアル添酒が並んでいるが、米の旨味こそが、本来の日本酒の味わい。だから、最後には純米酒が勝つと声を高めるのです。
松本部長のモットーは、“飲み飽きしない、旨味とキレのバランスが良い酒”とのこと。それには、伏見の名水がふさわしいと言います。
「どちらかと言えば軟水に近い水ですから、穏やかに発酵しますね。私の求めている麹や酒母造りにとても適しています。それに、良い酒を造る第一条件は原料処理にありますから、洗ったり浸したり、蒸したりする水の品質も大切です。特に、備前雄町を当社では扱いますが、この米は非常にデリケートな処理をしなければなりません。米の粒が大きく、吸水バランスなどに細心の注意が必要なのですよ」
雄町米には以前から興味が高かったと、松本部長は答えます。
筆者は、その精米工場へ案内されましたが、仁丹粒のように磨かれていく高精米の備前雄町には唖然とするばかりです。
その松本部長の薫陶を受けている製造部の若きリーダーが、明楽(あきら)桃子課長です。生産企画室課長も兼務し、きめ細かな生産管理業務に従事しています。
近年は、明楽課長のように製造部員に女性を抜擢する蔵元が増えつつあります。その理由は、整理整頓に始まり衛生面や数字的な計画・分析まで、女性の几帳面さが適しているからでしょう。
それでは、明楽課長に酒造りの心がまえを訊ねてみましょう。
「玉乃光の酒造りは、松本部長が指導される人の能力と機械設備の効果的な応用を、上手にマッチさせることにあります。でも、一番大事なことは“基本”を忘れないことであると実感しています。どんな難題でも、基本に立ち戻ってしっかりと実践していくことで克服できますし、次の課題にも取り組めると思います。それは、単に同じ所作を繰り返すのではなく、年々進化を遂げていくための基本への忠実さです。
安定した品質水準を毎年キープしていくためには、米の出来栄えから酒母の表情までつぶさに観察して、その状況に応じて対処できる能力を養うことです。それには、いつでも基本に戻ること。“温故知新”を忘れないことですね」
師と仰ぐ松本部長の一挙一動足に、日々、酒造りの心と技を学び、尊敬の念を重ねている明楽課長。その成長ぶりに、松本部長も嬉しそうに目を細めます。
インタビューの最後は、ふつふつと発酵するモロミに誘われて、蔵の中へ入らせて頂きました。歴史を映す木造りの蔵の中には、麹の香ばしい匂いとモロミのフルーティな芳香が満ちています。
備前雄町の純米大吟醸、祝の純米吟醸、山田錦の純米吟醸のタンクと、日本酒ファンにとっては楽園のような光景。そのモロミをひと口含めば、たちどころに「うまい!」の声が飛び出すのです。
「モロミは麹と水と酵母と、そして空気中の菌によって発酵するという理論ですが、そこにもう一つ大事な存在は、人の気持ち。つまり、造り手の“和”の精神ですよ。どんな素晴らしい杜氏でも製造現場の和を得られなければ、最高の酒を完成させることはできません。あの“和醸良酒”の心こそが、酒造りの基本だと私は思います」
忙しく立ち働く社員を見つめながら、いぶし銀のような存在感を放つ松本部長。そのまなざしの先には、“和醸良酒”の揮毫がどっしりと掲げられていました。
玉乃光の美酒を傾ける時、筆者は、その言葉を必ず思い出すことでしょう。