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奥の松酒造株式会社 ~歴史背景

奥の松酒造を訪れる数日前、当主が“遊佐(ゆさ)家”であることを知った筆者は、ピン!とくるものがありました。関西出身の筆者は、河内国(かわちのくに)で勇躍した一人の戦国武将の名に憶えがあったのです。

その名は、遊佐 信教(ゆさ のぶのり)。元亀3年(1572)織田信長に討たれた人物ですが、主君は河内畠山家の畠山 高政(はたけやま たかまさ)。父親は、河内国守護代の遊佐 長教(ゆさ ながのり)です。

一方、石川県・七尾は能登畠山家の領地でしたが、永禄9年(1566)頃には、遊佐 続光(ゆさ つぐみつ)の名が重臣筆頭として認められます。
畠山家と遊佐家の磐石な主従関係は全国各地に見当りますが、その本流こそ、正平元年(1346)に奥州管領を任ぜられた二本松畠山家と腹心的存在の遊佐家のようです。
期待と興奮を感じつつ、酒蔵の19代目に当たる遊佐 勇人(ゆさ ゆうじん)専務にインタビューしてみました。

遊佐家の先祖がはっきりと史実に現れるのは、応永20年(1413)。主君の畠山 光泰(はたけやま みつやす)に従い、現在の宮城県あたりから二本松に移住したとされ、“霞が城”の普請にも貢献したようです。
その後も代々“遊佐 蔵人(ゆさ くらんど)”の名を世襲し、畠山家に奉公しますが、天正13年(1585)主君の畠山 義継(はたけやま よしつぐ)が、かの伊達政宗に討たれます。結果、二本松畠山氏は滅亡。追っ手を逃れる遊佐 蔵人も、隠棲を余儀なくされます。

「この後の数十年間、私のご先祖は二本松の外れにあった通称“松盛の館(まつもりのやかた)”に暮らしたそうです。また、畠山家菩提寺の“龍泉寺(りゅうせんじ)”には代々の遊佐家の位牌が並んでいて、今は檀家総代になっています。余談ですが、伊達政宗の父・輝宗をさらった人物は、遊佐 蔵人との説もあるんですよ。現代的には悪役扱いされそうですが、当時の畠山側から見れば英雄だったんでしょうね」
あっけらかんと話す遊佐 専務に、筆者とカメラマンは口をあんぐり!
遊佐家が名門であることは広大な家屋敷からも察していたのですが、平然として言われると返す言葉もありません。

さて時代は移り、江戸時代初期(1604~)。遊佐家は商人として再び二本松の歴史に登場します。髻を切り、烏帽子を外した人物は、遊佐 金之丞(ゆさ きんのじょう)と名乗り、二本松蔵主・丹羽光重公の下で菜種油屋を営みました。
この“油屋”は、遊佐家の屋号として、後に酒蔵を生業としてからも継承されます。享保元年(1716)からは、油のほか、味噌・醤油、酒造業をも手がけました。
民衆からは“油屋 金之丞(あぶらや きんのじょう)”の名で親しまれ、いわゆるコンツェルンに成長。その秘訣は、初代金之丞の定めた掟「遊佐家の跡取りは、金之丞を実子、伊兵衛を養子として、この入替えを代々繰り返すこと」にありました。
奇数代で血筋を維持し、偶数代は養子による勤勉実直さを備えることで、放蕩息子の出現・身代の危機を防いだのでしょう。

「江戸時代の二本松の文献の中に、『夜中にお武家が城下に到着したので、油屋 伊兵衛の者に提灯を持たせて……』なんてくだりが記されています。それと、私宅近くの丘の上に“伊兵衛らんば”と呼んでいる墓地がありまして、そこには大正時代以前の一族のお墓が50ほど並んでいます。菩提寺とは別の所なのですが、元々は遊佐家が持っていた山です。私の祖父の代に、その山ごとお寺へ寄付したのです」
現代的なセンスあふれる遊佐 専務から話しを聴いていると、途轍もない伝統とスケールがごく当たり前のように思えてしまいます。

江戸時代後期になって、油屋は分家に継承し、酒造・味噌・醤油の醸造業に徹します。
“遊佐 伊兵衛 醸造”の誕生です。清酒の銘柄は「奥の松」、「岩泉(いわいずみ)」「玉泉(たまいずみ)」「人気(にんき)」などでした。
明治から大正の頃、遊佐 伊兵衛 醸造は千石酒屋のスケールに成長し、二本松の経済発展にも寄与しました。

不思議なことに、似たような伝統ある酒蔵の場合、そのほとんどが在郷の大庄屋や名主出身なのですが、遊佐家では農地を持ちませんでした。つまり、余剰米を生かすための酒造りではなかったわけです。にも関わらず酒米を充分に調達できたのは、元々は藩の御用達蔵クラスの存在だったからでしょう。
大正末期から昭和初期の十六代目、十七代目の頃“油屋酒造店”に改名し、旨い吟醸酒の蔵元として名をなしていきます。
そして昭和8年(1933)、全国品評会の桧舞台で優等賞を受賞。2年後には全国名誉賞杯を初め幾多の賞に輝き、“伊兵衛の吟醸蔵”として絶賛されたのです。

「この写真の中央左に座っているのが、祖父の遊佐 一郎(ゆさ いちろう)です。右隣りが越後 杜氏の西須 清作(さいす せいさく)ですね。祖父は非常に面倒見の良い人物だったようです。今でも、東北の蔵元の年配経営者にお会いすると、『一郎さんには、大変お世話になりました』とお話しいただくことがあります」
遊佐 専務が指す古い写真には、十七代目・一郎の姿がありました。彼は、東京帝国大学を卒業した英才。大日本麦酒(現・サッポロビールとアサヒビールの前身)に数年勤めた後、郷里に戻るや、油屋醸造店を経営するかたわら、二本松町長(現・市長)、銀行頭取(現・二本松信用金庫)に就任。二本松市の顔として数々の名誉職に就いています。

また、市場開拓のため東京へ頻繁に通い、渋谷駅前にビルを建設(現・東急クロスタワー付近)。他にも都内に数件の家を持ったそうです。
勇人 専務は、少年時代の夏休みをそのビルで過ごしたとか。母親の静子 社長が、銀座の老舗足袋店「大野屋 総本店」から嫁いでいることも、なるほど頷けます。

太平洋戦争後は復興の波に乗って、企業合併、組織改変などを繰り返し、昭和30年(1955)には「奥の松醸造株式会社」となります。この頃から経営に参画したのが十八代目当主の遊佐 栄一(ゆさ えいいち)でした。
昭和6年(1931)生まれの栄一は、一郎の実子。本来ならば養子“伊兵衛”を取るべき代でしたが、襲名制はここで終わっています。
栄一は探究心旺盛な青年に成長します。早くから先端の酒造テクノロジーに関心を寄せ、技術者としてもひとかどの人物でした。
酒蔵の旦那とはかけ離れた、シャープでクリーンな企業社長。芸術、書物を愛する栄一は、日本酒に留まらず、洋酒文化、海外の食文化にも造詣が深かったそうです。

「父は、昭和43(1968)年にこの本社を立ち上げ、二本松市内の旧蔵から販売と瓶詰め部門を移転しました。この時、奥の松酒造株式会社に改名したのです。それ以後も、昭和49年には“八千代蔵(やちよぐら)”を竣工させるなど、矢継ぎ早に業態改革を推進しています。その理由は、古い蔵の中で混然としている営業・製造・出荷工程をきっちりと分割すること。経験と腕が不可欠な手づくりの原理を技術設備に置き換え、酒質を安定化すること。それによって高品質・適正価格を推進できると考えたのです」

八千代蔵が建つ場所は、雪深い安達太良山の麓。本社から車で30分ほどひた走ると、広大な塩沢の森の中に白亜の蔵が現れます。安達太良の融雪水、氷点下の気温、そして、雪に洗われる清浄な空気と、またとない寒造りの好条件をそなえています。

昭和40年代の製造量は、18,000石を超え、飛ぶ鳥を落とすような勢いを迎えます。
地酒ブーム期も、安定した生産量を保ちますが、平成元年(1988)、突然の不幸が、奥の松酒造を襲います。栄一が58歳の若さで急逝したのです。
有能な経営者であり、また人望家でもあった彼の死に、全社員が悲嘆に暮れました。しかし、残された社長夫人・静子を中心に、二人の子息が身代を支えます。

製造部門を統括する長男の丈治。そして、営業部を牽引する次男の勇人でした。
「奥の松酒造は、時代時代において新しい改革を重ねてきた酒蔵です。消費者の嗜好がどうこうと考える前に、“まずは、酒蔵として旨い酒を造ることに徹する。そのためには常に新しいことへ取り組み、吟醸酒日本一に挑戦していこうじゃないか”という思想ですね。祖父も、父も、また代々の当主もそうであったはずです。現在私も、さまざまな構想を練り、計画を進めています」

近年、東北の蔵元の中でも、一頭地を抜いて成長している奥の松酒造。2002年度の出数量を見ると、対前年27%増の数値に驚かされます。
製造面ではパストライザーなる瓶火入れの先端技術を導入し、また販売促進面でも、TVCMの他、CI・VIなどさまざまな展開が話題を呼んでいます。
どうやらこれらの戦略は、二人の子息がプロジェクトリーダーとなって展開しているようです。次代の構想も含め、その内容は勇人 専務にじっくりと拝聴することとしましょう。

今宵は、武家時代から600年にわたる崇高な歴史を想いつつ、全国新酒鑑評会5年連続金賞酒の「大吟醸雫酒 十八代伊兵衛」を飲ることにしましょう。