プロローグ

古澤酒造株式会社

天恵の月山と古都の雅に育まれた、赤い宝石の町・寒河江

天恵の月山と古都の雅びに育まれた、赤い宝石の町・寒河江

たおやかな初夏の風は、あたかも優しい母の手のように、山麓を包む若葉を撫でています。彼方に霞むのは萌黄色の羽黒山、湯殿山、月山(がっさん)の出羽三山。その頂きに残る白い雪が、ふと厳しい冬の寒河江の姿を髣髴とさせます。

これらの山懐に浸透した雪解け水は幾星霜の歳月を経て伏流水となり、最上川や寒河江川へも下っています。滔滔たる水は悠久の時代からここ寒河江の里村を潤し、今日まで極上の米や野菜、果実の収穫を約束しているのです。

そして、したたるような緑と清冽な流れだけでなく、澄んだ空気の市街地で耳を澄ませば、カッコ~と鳴く野鳥の声も聴こえます。そんな寒河江との出逢いに、筆者はおだやかな安らぎを覚えるのです。

取材班が訪れたのは、寒河江市の農家が待ちに待った日。おりしも、寒河江のシンボルであり日本一を誇る、観光さくらんぼ園の開園日でした。

この季節、町のそこかしこで“佐藤錦”、“紅さやか”などの赤い宝石がたわわに実り、果樹園には全国から観光客が押し寄せます。畑を真っ赤に染める完熟色には、その小さな実に夢を託してきた寒河江の人々の情熱が感じられるのです。

また、今回訪問する古澤酒造(株)の古澤 康太郎 社長は、寒河江市観光協会会長を務め、日本酒と同様に、さくらんぼのPRにも力を尽くしています。

寒河江の歴史を紐解いてみると、町のれっきとした由緒を知ることができます。
平安時代の奥州は摂関・藤原氏を中心とする貴族の荘園として領され、現在の寒河江市一帯も、延久年間頃(1069~1074)には寒河江荘(さがえのそう)として造営されていました。これに先駆けて、奈良時代には仏教文化や雅やかな都の風情が移入されており、遥かな地からの典雅を、みちのくの人々は厚く敬ったと伝わっています。実際、寒河江市内には古刹が多く、荘重な伽藍や塔頭に往時の繁栄が偲ばれます。

その中でも、天平18年(746)に聖武天皇の勅命によって建立された慈恩寺(じおんじ)は、山寺として名高い立石寺に並ぶ出羽の国を代表する名刹です。
風格を湛えた茅葺きの本堂、神々しいまでに御光を放つ薬師三尊、敢然として邪気を祓う十二神将像など、仏閣仏像のほとんどが国の重要文化財に指定されているのです。
千三百年の歴史を刻む山門には幽玄玲瓏な気配が漂い、参拝する人々の煩悩を消し去ってくれることでしょう。

月山
サクランボ園がオープン
慈恩寺 本堂

鎌倉時代頃になると、土豪から派生した御家人や悪党たちが出羽においても勇躍し始めます。
これに対し、開幕を目前にした源 頼朝(みなもとの よりとも)は、平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)に君臨する藤原 秀衡(ふじわらの ひでひら)の成敗を皮切りに奥州平定を急ぎ、政所(まんどころ)の長であった大江 広元(おおえ ひろもと)の嫡男・親広(ちかひろ)を寒河江荘の地頭に任じました。
大江 親広は寒河江城(館)を普請し、勃発する国人の乱を制圧するや、建久2年(1191)には鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御霊を寒河江に勧請しています。これが現在の寒河江八幡宮の起こりで、古色ゆかしい本殿には当時の書画が奉納され、勇壮な流鏑馬(やぶさめ)の儀式も今に伝わっています。

親広は承久元年(1219)京都守護に大抜擢されますが、2年後の承久の乱においては父・広元が幕府側にありながら、朝廷方に馳せ参じ、討ち死にしています。
しかしながら広元の恩情によって寒河江大江氏の身代は安堵され、後の八代・時氏、九代・元時の頃には村山・最上地方にも勢力を広げ、隆盛を極めました。

さらに南北朝時代(1336~1392)には南朝へ与力し、北朝の出羽探題として延文元年(1356)に下向してきた斯波 兼頼(しば かねより)と対峙しましたが、正平23年(1368)漆川沿岸において両軍が激突。大江氏は潰滅的な残敗を喫し、以後、徐々に衰退していったのです。

下剋上の戦国期、十八代を継承していた大江氏は、ついに斯波氏の後裔・十一代目の最上 義光(もがみ よしあき)によって滅ぼされました。
最上 義光は、武力・知略・策謀を兼ね備えた、出羽の戦国大名として知られています。しかし、彼の前代までの最上家には内紛と派閥争いが絶えず、領内に分封配置した天童氏、上山氏、東根氏などの支族・家臣が、最上宗家からの独立勢力化を図っていました。

義光は、まずは領国支配体制を確立するため、これらの討伐を始めます。そして、寒河江大江氏などの地侍を死屍累々にして一掃するや、米沢の伊達 輝宗(だて てるむね)、庄内の武藤 義氏(むとう よしうじ)や雄勝の小野寺 義道(おのでら よしみち)を戦と罠によって次々に打ち破り、出羽全土をほぼ手中に収めたのです。
その拠点が、最上氏の始祖・斯波 兼頼が普請した山形城でした。城郭は、天正年間(1573~1592)義光の手によって本格的に拡張整備され、強固化しています。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで最上家は徳川方に与力し、そのため石田方に付いた越後上杉家の名将 直江 兼続(なおえ かねつぐ)に攻め入られます。万人を超える直江軍は山形城の外堀まで押し寄せますが、辛くも関ヶ原から石田方敗戦の報が伝わり、急遽全軍の引き揚げを開始します。この時、攻め入った直江 兼続が城の西側に聳える富神山に登ったところ、濃い霧によって城郭が見えなかったことから“霞城”の名で呼ばれるようになったそうです。

合戦後の論功行賞により、義光は徳川 家康より寒河江一帯も含む57万石に加増され、名実ともに出羽の国主として磐踞しました。
ちなみに、現在の山形市はかつての城跡や城下の遺構から発展したもので、その礎は義光の功績であると言っても、過言ではないでしょう。城の前には、彼の武辺を讃える「最上義光歴史館」が設けられ、最上家ゆかりの品々が一般公開されています。

大江 広元
寒河江八幡宮 本殿
最上 義光
山形城跡
最上義光歴史館
最上家ゆかりの品

それでは再び寒河江へ戻り、いくつかの観光スポットを紹介することにしましょう。
まずは寒河江の町並みを一望する長岡山に設けられた「寒河江公園」。ここには四季折々の花が咲きほころび、春の桜、初夏のツツジ、秋は紅葉と、寒河江の清涼な空気とパノラマを満喫できるのです。
公園の一画には瀟洒な木造建築が据わっていますが、これは明治中期に設けられた旧・郡役場と旧・郡会議事堂をそのまま使った「寒河江市郷土館」です。ノスタルジックな二つの西洋建築は和洋折衷の趣で、その特長は古い大福帳などの和紙を貼り重ねて作った壁にあります。

明治時代、冬の寒河江の農地は霏々と降りしきる雪のために作封され、主要な産業といえば養蚕しかなく、町の財政は汲々としていました。そのため、行政は予算の無駄使いを慎み、暮らしの知恵と工夫を生かしたのです。
どちらも安普請ながら、田舎ごしらえでないモダンな構造様式。しかも、和紙壁によって夏は通気性が良く、冬場の保温効果にも優れています。
大正時代には実業学校の校舎として転用されるなど、竣工以来130年間手厚く保存されてきたことに、寒河江の人々の“物を大切にする心”をうかがえます。

さて、ウォーキングを楽しみながら町を散策するなら、寒河江市の中心から北へ1.5キロメートル続く疎水沿いを歩いてみましょう。澄んだ流れは寒河江川の分水を引いた「二の堰親水公園」から下って来ています。
疎水のほとりには牧歌的な空気が漂い、夕景の中で回る水車に見惚れつつ、みちのくの静寂に耽るのも一興でしょう。

そして、清らかな水やさくらんぼとともに、寒河江の代名詞と言えるのが銘酒「澤正宗」です。その美酒は月山の朝露のごとくつややかで、純粋無垢な山形言葉のように心に染みわたります。蔵元の古澤家は、かつて最上川を行き交う船運業や紅花商なども営んだ名門と聞き、インタビューを前にして思わず心が躍ります。

寒河江の魅力が馥郁と香る、澤正宗のしずく……それでは、瑞々しき出羽の酒ロマンに酔いしれてみましょう。

寒河江公園
郷土資料館
郷土資料館
古澤酒造株式会社