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お福酒造株式会社 ~プロローグ

日本海からせり出してくる雪もやいの空が、冷たく澄んだ「信濃川」の流れを覆っていきます。張りつめた空気の中、彼方には雪をまとった中越の山並み。ここ新潟県長岡市は、いよいよ冬将軍を迎える季節です。
日本屈指の豪雪地である長岡市は、平成16年(2004)10月23日に発生した新潟県中越地震によって罹災しました。一年余りを経た今も、その痛々しい爪痕は市内各所で目の当たりにされ、災害の大きさを物語っています。
しかし、厳しい冬の暮らしに培われてきた長岡人気質は、逆境に負けはしませんでした。全国各地より陸続とやって来た8万8000人のボランティアの力も借りて、越州の文化と歴史を紡ぐこの町を見事に再生させています。
そんな町並みを見つめながら、ふと思い出したのが、数年前に訪れた山古志村でした。

今回の地震で壊滅的な被害を被った「山古志村」は、深い雪に閉ざされながら、一歩一歩再生へと向かっています。 世界的な名産品である「錦鯉」の養魚池やセリ市場が再開。今回の訪問蔵元・お福酒造株式会社が重用している「棚田の酒米」も、ようやく回復の途にありました。


ところで、長岡は「上杉 謙信」「北越戊辰戦争」との関わりなど、越後の歴史の表舞台として有名です。その町並みが確立し始めたのは、正平20年(1365)の頃と伝わっています。
時の領主は、平安期から荘園主であった大島氏。信濃川の流れが育んだ肥沃な土地は、格好の穀倉地帯であったにちがいありません。
しかし、南北朝時代に大島 頼興(よりおき)が北朝方に敗れて滅亡し、その後、越後の守護大名として勢力を広げていた長尾家(上杉家)が治めます。爾来、慶長3年(1598)の会津移封まで、約230年にわたって長岡一帯は上杉家に支配されました。
幕末の北越戊辰戦争で灰燼に帰した長岡だけに、そんな中世の面影は微塵も残されていませんが、それを知るのが、市内の栖吉地区に無言で立つ樹齢800年を超える「栖吉の大欅」でしょう。
苔生し、ヒビ割れている周囲7、8メートルもの幹は、あたかも長岡の白眉のように幽玄な気配を感じさせています。
伝説によれば、その昔、大欅は信濃川近くにあり、流れを溯った摂津の国(現在の大阪府)出身の船頭がその幹に舟をつないで上陸したそうです。そこに摂津の住吉大明神を祀って、住吉村と名付けました。
やがて住吉村は栖吉村へと字を変え、大欅は「舟つなぎの大欅」と呼ばれるようになったのです。
また、この大欅と同じく長岡の民を見守り、潤してきたのが「弘法の清水」。水清き町でもある長岡には、至る所で“美味しい水”が湧き出ていますが、中でもこの泉は弘法大師が長岡を訪れた際、発見されたと伝わっています。

眼病を患った村人に大師が「湧き水を沸かして、まぶたを蒸すように」と教えたところ、村人たちは風呂を沸かして入浴し、全員が完治したそうです。その清冽な水は、今も変わることなく地元の人たちに愛飲されているのです。
このように豊かな水に恵まれ、良質の米どころでもあった長岡は、江戸時代になると徳川家の譜代藩である牧野氏に与えられます。三河(愛知県)より国替えとなった牧野氏は、7万4千石の領地を安堵されたのです。

さて、長岡人を象徴する傑物と言えば、まずは北越戊辰戦争の英雄「河井 継之助」でしょう。
慶応4年(1868)京都で火蓋を切った薩長軍と幕府軍の戦いは、その後、新型兵器と西洋式の戦術を導入した2万人の薩長軍が圧倒的な攻勢をしかけ、幕府軍はじりじりと江戸へ向けて後退します。
薩長軍が進む各街道沿いの徳川親藩は悉く軍門に下り、恭順と軍費拠出を迫られたのです。
そんな中、あくまで徳川でも薩長でもなく、長岡藩の独立を目指して武装中立を掲げ、薩長軍に敢然と挑んだのが軍事総督の河井 継之助でした。
継之助の実家は、百二十石取りの勘定奉行。中流武家の嫡男として育ちますが、少年時代は利かん気の強いヘンコツ者で、文武への造詣は薄かったようです。

しかし、陽明学と出会った青年・継之助に、牧野家への忠義と奉公の精神が芽生えます。当時、長岡藩のような小藩では参勤交代による莫大な費用がかさみ、藩の財政は窮迫たる状況でした。
新たな境地に目覚めた継之助は、さまざまな学問と知識を修め、江戸から諸国を見学し、帰藩後にはメキメキと頭角を現して、評定方に抜擢されるのです。その後も、藩財運用、産業品の売買などに率先して着手、幕末頃には10万両を超える財源を確保。藩士たちに給料制を導入し、藩政を企業のように合理化したのです。
黒船来航、尊皇攘夷運動など、世はすでに江戸幕府の終焉を告げていました。継之助の胸中には、長岡藩を時代の激流に翻弄されない独立国家として存続させる決意があったようです。
そんな継之助の夢は、無常にも戊辰戦争の波に呑み込まれていくのです。

すでに長岡藩家老上席を任されていた継之助は、表向きには中立を示しつつも、牧野藩が徳川家の縁戚にあることから薩長恭順派の意見を退けます。しかし4月末には、ついに薩長軍が隣接する小千谷の地で会津藩を破り、長岡へ迫ったのです。
継之助は和睦に臨むべく小千谷の慈眼寺へと向かい、軍監で土佐藩士・岩村 精一郎と会談します。しかし血気盛んな24歳の岩村と折り合うはずもなく、交渉はあっけなく決裂。その翌日、長岡藩の盟友である川島 億次郎を前島村に訪ね、やむなく開戦決断を申し合わせたのです。

継之助の手腕によって莫大な軍費を確保していた長岡藩は、日本に3台しかない最新式のガトリング砲も入手。薩長軍の度肝を抜いて善戦し、一時は退却に追い込みますが、陣頭指揮する中で継之助は左足に被弾してしまうのです。
死を覚悟した継之助は、従僕の松蔵に「私の亡骸を、薩長に渡してはならぬ」と命じ、我が身を焼くための火を起こさせ、その炎をじっと見つめていたそうです。
長岡人には“質朴剛健”の気質が継承されていますが、継之助の生きざまはその真骨頂と言えるでしょう。そんな彼の偉業と人物像は、長岡市郷土資料館などで辿ることができます。

そして今一人は、太平洋戦争の連合艦隊司令官「山本 五十六」元帥にほかなりません。
山本 五十六は、明治17年(1884)長岡藩士・高野 貞吉の6男として、父が56歳の時に誕生しています。高野家からは、父と兄二人が戊辰戦争に出陣しました。
明治37年(1904)の日露戦争を最初に軍人としての人生を歩み始めた五十六は、秀逸慧眼さを認められ、昇進を重ねて「長岡が生んだ百年に一人の逸材」と称賛されました。
JR長岡駅近くには「山本五十六記念館」が開設されていますが、五十六の少年期、青年期にしたためられた文面には、その非凡な才能を垣間見ることができます。

大正4年(1915)、五十六は戊辰戦争後に断絶されていた長岡の名門・山本家の養子となり、家系を再興しました。ちなみに山本家の先祖は、河井 継之助の右腕として戊辰戦争に散った名将・山本 帯刀なのです。
継之助を尊敬した山本 帯刀の後継者に、同じく継之助を敬愛してやまなかった五十六が選ばれたこと。そして五十六自身も昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で敵機に撃墜され、軍人としての天命をまっとうしていることに不思議なえにしを感じます。
町の中心部にある「山本記念公園」の銅像前には旅行者たちが訪れ、しばしの間、頭を垂れる年配者の姿も見られます。

ところで長岡は、古くより“蕎麦がうまい町”として知られています。
豊かな自然の中で育った蕎麦粉に海藻のツナギを使った「ヘぎ蕎麦」は、長岡の地酒とも抜群の相性。町中には老舗・名店がひしめいて、全国からやって来る観光客が必ずと言っていいほど舌鼓を打つのです。
その蕎麦を始めとする長岡の郷土料理の美味しさは、やはり、この地に出ずる良質の水が理由のようです。 そして、いにしえよりの名水を使った酒で人心を潤し、度重なる災難に見舞われた長岡を不死鳥のごとく甦られてきたのが、銘酒「お福正宗」でした。

中越地震で大きな被害を受けたお福酒造株式会社ですが、平成16酒造年度全国新酒鑑評会では、みごと金賞を受賞。全社員が一丸となった忍耐と努力は、まさしく長岡の誇りと言っても過言ではないでしょう。
震災でも変わらなかった清らかな湧き水、創業時から継承される手造り主義、そこから生まれる長岡人が愛してやまない美酒……在りし日の河井 継之助や山本五十六も、おそらく傾けたであろう一献を、今宵はじっくりと楽しんでみることにしましょう。