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奥飛騨酒造株式会社(旧髙木酒造) ~歴史背景

奥飛騨酒造の蔵棟の先にそびえる、萱葺きの大屋根。あれはまさしく“合掌造り”ではないか!と取材スタッフが目を凝らしていると、背後から快活な声がかかりました。
「あれは白川郷から移築した、本物の古民家なのですよ。世界遺産になる前に購入しまして、当家が経営する和食レストラン飛山(ひざん)のシンボルとなっています。ここまで大きくて、原型を留めているものになると登録有形文化財にも値します」

そう言って合掌造りの家に案内してくれたのが、奥飛騨酒造株式会社代表取締役の高木 千宏(ちひろ)社長です。朗らかな笑顔と恰幅の良い体格は、いかにも蔵元然としています。

2000坪を超えるレストランの敷地、高さ10メートルもの重厚な萱葺き屋……圧巻のスケールに筆者が唖然としていると、「この裏山も含めた約500町歩の山を、代々保有しているんです」と高木社長は言葉を続けました。

1町歩とは約3,000坪ですから、その広さたるやあまりに気宇壮大で想像もつきません。この他にも近隣地域で数店の飲食レジャー施設を経営していると聞き、どうやら蔵元の高木家は、歴代にわたって金山町の大地主であったと推察できます。
期待に心を躍らせながら、創業した享保5年(1720)頃の系譜を高木社長に訊けば、こう答えます。
「歴史的なお話しは私よりも会長が詳しくて、秘話や逸話も豊富ですよ」その言葉に甘え、由緒を感じさせる玄関の座敷で、高木社長の父・高木 富蔵 会長にインタビューすることとなりました。

高木 富蔵 会長は、享保5年(1720)の創業者・吉田屋多吉から数えて十代目に当たります。

昭和62年(1987)まで奥飛騨酒造の社長を務めていましたが、実は飲料大手メーカーの株式会社ポッカコーポレーション代表取締役も兼務していた人物で、中京地区産業経済界の重鎮として知られています。その立場にも、高木家の持つ地位と格式を感じざるを得ません。
「享保5年(1720)の創業者・吉田屋多吉は、高木本家の人物です。本家は、今でも“問屋(とんや)”と呼ばれておりまして、昔は酒だけでなく味噌・米に始まり、茶葉、材木などあらゆる生活用品・雑貨などを扱っていた、いわゆる卸売り商でした。

天保年間(1830~1843)の初め頃、本家より分家した人物が現在の地で酒蔵を営みまして、これが当家の祖・多吉となっています」

高木 富蔵 会長は、高木家に残る古文書を紐解きつつ解説を始めます。
吉田屋の屋号は、隣接する加茂郡白川町の佐見・吉田の地に由来し、多吉はずっと南の可児の地で酒株を買い付けました。当初の酒「初緑(はつみどり)」は、草萌ゆる春の金山を想わせる風情ある銘柄です。

その後、初緑は尾張藩御用達の酒に選ばれ、今も奥飛騨酒造の店頭ギャラリーには、当時藩公より下賜された「初緑」の版木が保存されています。

また、天保5年(1834)から代々の蔵元が書き留めた大福帳、蔵元ゆかりの骨董品や希少なコレクションなども展示されているのです。

さて、江戸期の飛騨地方では、天領の木材を伐採・搬出・流送していました。
中でも天保9年(1838)の江戸城炎上後、再建のため尾張藩には膨大な木材が割り当てられています。幅5~9尺(1.5~2.7m)、長さ8尺の杉板や檜材、丸太などに1年間で5万?を伐採し、社寺や庭園の樹木まで倒されたのです。

金山近辺の山麓からも多くの木材が切り出され、それらは筏に組まれて峡谷を下り、木曽川を経て、熱田湊(現在の名古屋港)から江戸へ廻船で運ばれました。
となれば、そこには山師や筏人足たちが集結し、代官所の役人も逗留したはずです。
「江戸時代の森林伐採と川下りは、冬場しか許されていなかったんですよ。夏は大雨で洪水になるので、木材を傷つけるし、人足たちも危険でした。それでも当時は、3年間に3万本も切っていました。飛騨川(益田川)や馬瀬川沿いには、多くの貯木場や船付き場があったようです。金山の近くでは上麻生(川辺町)と呼ばれる場所が最も大きく、賑わっていたようで、必然的に金山宿は活況し、暖を取るために当家の酒もたくさん飲まれたことでしょう」

博識な口調で語る高木 会長は、余談ながらと一冊の本を見せてくれました。その題名は「飛騨屋久兵衛」。何やら、豪商人物記のような雰囲気を醸し出しています。「元禄から正徳年間(1688~1715)頃に活躍した、当家ゆかりの人物です。飛騨檜などの材木商から身を起こし、江戸で修行した後、東北や北海道に進出しています。

元禄15年には(1702)松前藩(今の函館地方)へ乗り込み、未開地のアイヌ民族と交渉して檜材を伐採。ついには廻船業にも着手し、江戸・京都・大坂など全国各地に支店を開設するほどの豪商になりました」
この飛騨屋久兵衛の本名は、武川 倍行(たけかわますゆき)。倍行は飛騨国益田郡湯之島村(現在の下呂町)生まれ。遠祖は、甲斐国の戦国武将・武田 信玄の臣下でしたが、武田家滅亡後、飛騨に流浪して地元の名家を継いだのです。
高木家に流れているその偉人の血脈に、冒頭に紹介した500町歩の山林地主たる由縁を実感します。

江戸期後半から明治時代にかけて、金山には5軒の酒蔵が存在していました。それぞれ200石程度の製造量でしたが、繁盛していたようです。町には飛騨の山林職人、下呂に向かう湯治客、越中と中京を行き交う行商人相手の旅籠・料理屋が30軒ほど連なり、芸妓の置屋もあって、酒の消費は多かったと推察できます。

当時の高木酒店の蔵主は、七代目の高木 清雄(きよお)。国学や儒学に傾注した学者肌の人物で、机上には書籍をうずたかく積み上げていたそうです。その清雄が残したある品物に、彼の優れた素地素養を垣間見ることができました。
高木 会長に手招きされて覗き込んだギャラリーケースには、古びた一編の冊子がありました。その冒頭の文字に筆者は思わず目を奪われ、声を上げて読んでしまったのです。
- 天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ -
「これは清雄が江戸へ旅した時に買って来た、福沢諭吉の“学問のすすめ”です。明治5年(1872)頃の初版本ですが、当時大ベストセラーになっていたこの本を曽祖父はどうしても手に入れたかったのでしょうね」


会長が指す藁半紙の冊子を取り囲むように、周りには江戸時代の雛人形や貝合わせ、趣のある伊万里焼の酒器などが飾られていて、豊かな教養と文化的環境に育った清雄の人生を髣髴とさせます。
そんな清雄の才能を受け継いだ八代目の弥三郎は、土地の有力者として人望を集め金山町長にも就任し、八面六臂の活躍をしているのです。
作家・司馬 遼太郎の名著シリーズ「街道をゆく」にも紹介されていますが、峻険な崖と速い流れを持つ馬瀬川は、国盗りの戦国時代までは美濃と飛騨の国境、江戸時代は天領と他藩の境界線になっていました。「境橋」と呼ばれる橋がかけられていましたが、往時は藤のツルなどで造った簡素な吊橋で、壊れやすかったようです。

そのため、明治新政府の町村自治制が始まるや、弥三郎を中心とした地元の名家が組合を興し、新たな木製の橋を普請したのです。工事には莫大な費用を要しましたが、商才に長けた弥三郎は、完成後に通行料を徴収することで負担を賄うこととしました。

この橋の完成によって、途切れていた対岸との友好関係や情報交流、経済や流通が劇的に変化したのです。
大正時代には、高木 会長の父・公平が登壇します。彼の時代には「初緑」の他に「中山七里」「孝池水(こうちすい)」「公盛(きみもり)」など、新たな銘柄が増えています。
九代目の公平は、明治21年生まれ(1888)。少年期から頭脳明晰で、理科学系の才能を発揮して医師を目指しました。飛騨中学校を主席で卒業後、京都大学医学部を受験すべく単身京都で下宿し、1年間猛勉学に励んだほどでした。



しかし長男の立場から家督を継ぐように説得され、やむなく帰郷。岐阜師範学校(現在の岐阜大学)へ入学し発酵学や醸造学を習得後、明治37年(1904)に完成したばかりの大蔵省醸造試験場に入り、ここでも主席卒業を果たします。

「大蔵省醸造試験場の第1回目の卒業式でしたから、高橋 是清(これきよ)首相を筆頭に錚錚たる閣僚が列席されました。一番の成績を修めた父は答辞の大役を仰せつかったのですが、緊張のあまり震えが止まらなかったそうです」
卒業後も大蔵省鑑定官室に勤めたり、全国各地での講演や蔵元への指導に東奔西走したと、高木 会長は父の素晴らしさを振り返ります。
ただ、その頃の高木家は慎ましく質素な暮らしで、公平への送金もわずかな額でした。公平は生活費に行き詰まることもあり、そのために母親が酒蔵の店頭で文房具(万年筆など)を売り、送金の足しにしたそうです。

「その頃の学生たちは金時計を懐中に提げていたのですが、父には買えませんでした。そこで有志の方たちがカンパして、主席卒業の記念にピカピカの金時計を贈ってくれたのです。晩年の父は、その時計を太平洋戦時下の軍需用にも差し出さなかったのです」
公平を新時代の日本酒業界と醸造技術をリードする逸材と認める友人や周囲の仲間たちが、心から称賛し盛り立ててくれたのですと、高木会長は美談を懐かしげに語ってくれました。
その言葉通り、公平の酒は中濃地区の清酒品評会で大正12年(1923)より連続して優等賞を受賞しています。

その公平の次男として大正13年(1924)に誕生したのが、高木 富蔵 会長でした。
男5人、女2人の兄弟に生まれた高木会長は、少年期に名古屋市の親戚宅に預けられ、町っ子として育てられました。青年期には、やはり蔵元の血筋とあって広島工業専門学校発酵工業科(現在の広島大学工学部)へ進学しますが、太平洋戦争下には勤労動員学生として、東京石川島にあった陸軍関連の研究室に配属されています。

そして昭和20年(1945)3月、紅蓮の炎に包まれた東京大空襲を生き延び、8月には広島へ戻ることとなりましたが、1日違いで原爆罹災をまぬがれ、九死に一生を得たのです。

終戦とともに金山へ戻った高木会長は、父とともに酒蔵を営みます。昭和34年(1959)には、新しい試みとしてウォッカ、ズブロッカの製造を開始。この頃、金山町商工会長に抜擢され、以後27年間奉職しています。

また、昭和40年代には、無二の友であった株式会社ポッカコーポレーションの谷田社長から三顧の礼を持って経営陣に迎えられ、爾来40年近く勤務したのです。