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奥飛騨酒造株式会社(旧髙木酒造) ~プロローグ

冬の飛騨路の代名詞と言えば、純白の世界に包まれた「合掌造り」。世界遺産・白川郷でも知られる日本の原風景に想いをはせながら、取材スタッフの車は今回の取材蔵元・奥飛騨酒造株式会社のある岐阜県下呂市金山町へと向かいます。
ところが、久しぶりに晴天を迎えたこの日、車窓に映る飛騨街道は早春のような風景。険しい山並みを縫う「飛騨川(益田川)」の渓流沿いは雪解けの靄が立ち昇り、幽玄な景色を描き出していました。

下呂市金山町は、人口約7,000人。標高800mを越える山稜に囲まれ、飛騨川、馬瀬川など6つの川を持つ山紫水明に抱かれた町です。春夏秋冬ごとに美しい鄙の風景が移ろい、夏は「横谷峡の四つ滝」、秋は名刹「玉龍寺」の紅葉など、旅の家族に憩いと団欒のひと時を提供しています。
これまで武儀郡金山町、益田郡金山町を経て、そして平成16年(2004)3月に観光と温泉の町・下呂市に合併統合されました。

金山町が繁栄したのは下呂よりも古く、尾張藩の天領であった江戸時代から大正時代までは飛騨街道を支える宿場町でした。昭和3年(1928)国鉄によって白川口~飛騨金山間の高山線が開通するまでは、越中への旅人や下呂温泉の湯治客たちで賑わい、多くの馬子や籠人足も集まったと伝わっています。
古都・高山や深山幽谷の奥飛騨を経て、果ては富山県まで続く道……創業286年の風格漂う奥飛騨酒造の社屋も、その通りに面していました。いったいどれほどの旅人たちが、ここを行き来したことでしょう。

飛騨街道の南端は中山道に通じる太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市太田町)で、ここから近江(滋賀県)草津宿から東海道を経て、京都へ至っています。つまりは金山町も含め、飛騨の町々は早くから都との交流・通信が盛んであったのでしょう。



その証しとも言えるのが、下呂市の禅昌寺や金山町の玉龍寺など古刹の存在。
禅昌寺は、平安時代の僧・恵心(えしん/942~1017)が庵を構えて、観世音菩薩を祀ったと伝えられています。ここには名僧・雪舟が描いたと言われる大達磨像が納められており、飛騨の高尚な仏教文化を語り継いでいます。
玉龍寺はさらに時代を溯り、天平17年(745)聖武天皇から大僧正の位に任ぜられた僧・行基(ぎょうき)が建立したとされています。
境内には静謐な空気漂う庭園がしつらえられ、その一画には、かつて戦国時代に飛騨一円を治めていた金森氏三代の霊廟も置かれています。

金森氏は清和源氏の支流で、遠祖は美濃国の守護であった土岐氏と言われています。中でも頭角を現したのは、応永4年(1524)に生まれ織田 信長から豊臣 秀吉に仕えて飛騨国三万八千余石を拝領した金森 長近(ながちか)です。
長近の跡を継いだ養子の可重(ありしげ)は出雲守を称し、家督を継いで飛騨高山城に居を構えていました。文禄元年(1592)の朝鮮出兵/文禄の役では北九州の名護屋(現在の佐賀県唐津市)に出陣、秀吉じきじきに茶入れの壷などを与えられています。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与力し、また大阪の陣でも戦功を挙げ、徳川幕府から領地を安堵されました。



この長近と可重の親子は武将としてだけでなく、風流人としてもひとかどの人物でした。長近は千利休や古田 織部に茶の湯を学び、徳川 家康を伏見の別邸に招いて茶会を催したほどでした。また可重も利休の門下で、二代将軍・徳川 秀忠の茶の師範役を勤めたほどです。今日まで清冽な山水・湧き水の豊富な地であることも、飛騨の茶の湯文化が発展した理由でしょう。
可重の嫡男・重近は、大坂冬の陣への参戦を拒否したため可重から勘当されましたが、その後は剃髪して大徳寺に入り宗和と号し、茶道の名家・宗和流の始祖として名を残しています。さらに、池泉回遊式の庭園にも造詣が深く、禅昌寺に残る萬歳洞と玉龍寺の庭園は、いずれも金森 宗和の作と伝わっているのです。
これらの金森氏が育んだゆかしい芸術観も、飛騨の伝統文化に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。

江戸時代、金山町は尾張藩の天領、旗本の領地、苗木藩領に接するため、さまざまな人間と情報が頻繁に行き交いました。このため街道沿いには2つの御番所(関所)が置かれ、口役銀(通行料)も飛騨にある18ヶ所の番所中で最も高値だったようです。
文人墨客も多く来訪し、彼らが逗留する金山の町にはしだいに向学の土壌が作られていたにちがいありません。

そして幕末の頃、一人の偉人がこの金山の町から誕生します。
彼の名は、加藤 素毛(そもう)。万延元年(1860)黒船来航によって勃発した日米修好通商条約のため遣米使節の一員として米軍艦ポーハタン号に乗り、太平洋を渡りました。その後サンフランシスコから南米パナマへ向かい、大西洋を横断して、ケープタウン、ジャワ、香港を経由し、世界一周を旅した人物です。

また加藤素毛の才知は、水戸学の賢哲・藤田 東潮に匹敵したと言われています。
素毛は、文政8年(1825)往時の金山一帯である下原郷17村を取り仕切る大庄屋・加藤 三郎右衛門 雅文の次男として生まれました。天領の代官とじかに目通りできる“肝煎り庄屋”の加藤家は、名字帯刀を許され、学問・芸術にも造詣が深く、特に素毛の祖父は「素有」、父は「素収」、兄は「素石」といずれも「素」を旨とした俳名を持っています。

素毛は若くして秀逸慧眼ぶりを見込まれ、飛騨郡代の公用人として高山陣屋に出仕。さらに国学や漢詩に傾注し、数え切れないほど人脈と見識を広げます。
また高山陣屋では、素毛にとって運命の出会いが待ち受けていました。
郡代・小野 高福の四男であった鉄太郎に強い刺激と羨望を与えられたのです。この鉄太郎こそ“幕末の三舟”と謳われた英傑の一人。つまりは山岡 鉄舟、その人でした。

青年期に父親が疑獄で自害した鉄舟は、江戸に出立し、安政2年(1855)19歳で講武所に入るや頭角を現し、その後は幕閣の一人として明治維新まで徳川政権の舵を握ります。

一方、素毛は嘉永5年(1852)27歳で高山陣屋を辞して、諸国を行脚します。特に、異国情緒華やかな長崎滞在中は、目にするものすべてが驚きと感動に満ちていたようです。
その紀行は「関西日記」と題され、今日まで残っています。
けたはずれな欧米文明に触発された素毛は、安政6年(1859)35才の時に山岡 鉄舟を頼って江戸へ出奔。鉄舟の計らいで幕府御用達の大店・伊勢屋の手代となった素毛は、遣米使節団御賄方の一人に加わることができたのです。

文才豊かな素毛は254日間に及ぶ海外見聞を、日記やスケッチでつぶさに書き留めています。またアメリカ大統領・ブキャナンからは、南北戦争前の星条旗(星の数31個)を授かっています。
帰国後、素毛は文化人の立場から、異国文明について江戸や高山など各地で講演。日本の西洋化への道を、大いに啓蒙しました。
金山町では、彼の足跡や貴重な資料を、加藤素毛記念館「霊芝庵(れいしあん)」で展示公開しています。

さて、そんな素毛や鉄舟たちも湯浴みしたであろう名湯が、下呂温泉です。
金山町から「中山七里」と呼ばれる奇岩巨石の渓谷美を目にしつつ、北上すること30キロあまり。ぽっかりと開けた盆地に、下呂温泉街があります。

年間150万人が陸続と訪れる温泉の町は、かつて徳川家康、秀忠、家光、家綱の四代将軍に仕えた儒学者・林羅山(1583~1657年)も訪れ、彼の詩文には群馬の草津、兵庫の有馬とともに「天下の三名湯」と称えられています。
野趣あふれる河原の露天風呂など、そこかしこから湯の香漂う町並みは千年を超える歴史を持ち、悠久の時代から「白鷺の湯」として守られてきました。

伝説によると、一羽の怪我を負った白鷺が飛騨川の河原に降り立ち、幾日間もじっとしていました。

気づいた村人が覗いてみると、白鷺の足元には滾々と湯が湧き出しています。そして白鷺が飛び去ると、その後には薬師如来像が佇んでいたそうで、今日も温泉街に暮らす人々は山裾の「温泉寺」に祀られている薬師如来像に手を合わせています。
思うに「白鷺」は、湯当たりの少ない柔らかな泉質の下呂温泉にふさわしい名前。女性客に人気を呼んでいる理由を頷けます。
また、合掌村を散策しつつ、界隈に点在する「足湯」を楽しんでみるのも一興でしょう。

手つかずの自然と高尚な文化を受け継ぐ、飛騨・金山の里。
しんしんと冷える冬は、ここで萱葺き民家の囲炉裏火や銘酒「奥飛騨」の燗酒を楽しめば、身も心もしんから温まりそうです。
下呂温泉の湯煙、飛騨川の清流、そして奥飛騨酒造の名残り雪……飛騨の銘醸が秘めてきた蔵元物語を始めることにしましょう。